いろいろな克服方法を知ることができるのは心強いと思います

以前、岡田尊司著「過敏で傷つきやすい人たち」(幻冬舎新書)というHSP(Highly Sensitive Person)について書かれている本を読みました。

私自身、HSPかどうかを調べるチェックリストで特徴に合致したものですから、前々からこの症状に注目していたのですが、一方でこのチェックリストのような判定は、科学的な実証とはちょっと違うのかなと感じていました。

実際に岡田さんは、HSPが医学的な概念になりきれていない理由を詳しく述べられていたので、それが理由でこの本を買ったんですね。

もう一つの買った理由は、岡田さんは愛着障害などの書籍を多数出版されている方だということを知っていたので、その方が書かれているHSPの過敏性を克服する方法を知りたかったというのがあります。

本にはいろいろな克服方法が提示されていますが、最終的には自分の中に安全基地を持つこと薦められています。

この安全基地というのは、岡田さんの一連の書籍にも登場するキーワードのようです。

これはインターネット上でもいろいろ議論されているようで、自分で納得できるほど機能する安全基地を持つというのは、なかなか難しいことのようです。

ネット上の発言を見ると、年齢は20代か、高くても30代のような気がします。

どこかの集団に帰属したいという意識は強いのだと思います

私は専門家ではありませんので、昨日お話したニューロダイバーシティやHSP(Highly Sensitive Person)などが、学術的にどのような位置にあるのかは分かりません。

ですので記事や本の内容に対しては、共感することしかできません。

しかし、仮に学術的にはまだ認められていない説であっても、例えばアダルトチルドレンであるとか、HSPであるとか、自分がその特徴に当てはまるというだけでも、自分がある集団に帰属できるという安心感は大きなものがあります。

昔、卒業後に会った同級生が、学校に行くのが本当に楽しみだったという話をしたことがありました。

学校に行くのが嫌だった私はちょっと驚いたのですが、教室で楽しそうにしていた同級生たちを思い出して、やっぱりほとんどの人はそうだったんだろうなと納得しました。

そのときはたまたまその場に、私と同じように学校に行くのが苦痛だったという同年代の人がいたので、自分と同じ感情を持っていた人もいたんだと安心はしたのですが。

当時は、今のように多数派ではない人たちについての調査が進んでいませんでしたので、そのような話を聞いたときは、自分一人が浮いた存在のようで、孤立感を感じる人も多かったと思います。

ニューロダイバーシティ=脳の多様性という考え方があるようですね

先日インターネットを見ていたら、京都大学教授の正高信男さんという方が書かれた「自閉症者が人類社会に「不可欠」である理由 ~実は障害ではない!」という記事を見つけました。

そこで、ニューロダイバーシティ=脳の多様性という概念を知りました。

自閉症のような方の特徴は、技術や文化の発展に寄与するものであって、人間の多様性の一形態であるということのようです。

記事の中で、「社会的周縁に存在し、自然界のなかで自分たちがどう生きていくかに思いをめぐらす人物と、集団・社会内で互いの利益を調整し、どう上手くやっていくかに思いをめぐらす人物がいる」というような例を挙げて、いわゆる多数派(後者)とそうでない人(前者)との違いを説明されています。

この概念とともにもう一つ面白いと思ったのは、そのような特徴を持った人たちが、世の東西を問わず、封建制の崩壊以降、定住することをせず遊芸人として移動する生活を始めたというくだりです。

私は室町時代の遊芸人、または遊芸民と呼ばれる人々に興味を持っていたのですが、ニューロダイバーシティという文脈で説明できるんですね。そういう意味では西洋でも同じなわけです。

インターネットでちょっと調べてみたところ、面白い本がいろいろありそうなので、そのうち読んでみようと思います。

ハードディスクやディスクトップパソコンのような製品はもう出てこないかもしれません

昨日書いたようにWindows 10のバックアップを終えてひと安心し、次の日Windows 7を起動してしばらく仕事をしていたら、急に真っ青な画面(ブルースクリーンと呼ぶようです)になってしまいました。

久しぶりに見ました。メモリエラーっぽいメッセージが出ています。

念のためセーフモードで再起動したあと、通常起動してみたのですが、それ以降何事も起こらず普通に動作しています。

こちらも念のためチェックディスクをしたあと、ハードディスクを丸ごとバックアップしました。

今どきこのような作業をしている人は、ほとんどいないんじゃないでしょうか。

考えてみれば、もともと自社ソフトの動作チェックをするためにこのようなバックアップを始めました。

Windows 98や2000の時代は、SCSIやLANなどのインターフェースボードを刺していて、OSの再インストールのとき、ボードを認識させることなどがとんでもなく大変だったので、それを避けるためです。

今はソフト自体、バージョンアップを繰り返しているわけでもなく安定していますので、そこまで動作チェックをする必要もないように思います。

中古のハードディスクを気軽に取り替えていますが高価だった時代は忘れません

弊社はScore Magazineという楽譜作成ソフトを販売していて、対応OSは「Windows 98以降」にしていますので、動作チェックのために常時複数のOSが使えるようにしています。

とはいっても、MicrosoftのWindows Vistaのサポートは終了していますので、用意しているのはWindows 7、8、10だけです。

以前書いたと思いますが、各OS分ノートパソコンを用意しているわけではなく、1台のディスクトップパソコンに各OSの入ったハードディスクドライブ(HDD)を挿して動作させています。

業務で昔から使っているソフトはWindows 7用が多いので、メインは今でも7ですが、何ヶ月かに一度、思い出したように他のOSを起動して、Windows Updateなどをしています。

先日もWindows 10を起動しようとしたら、急に電源が落ちてしまいました。

2、3回再起動しても同じです。

こういう場合は、潔く中古かバルク品のHDDを買って、あらかじめバックアップしていたHDDを丸ごとコピーし、バックアップを複数確保するようにしています。

易経で現代を見る目が変わるのか観察してみたいと思います

もう一つ例を挙げると、六本の爻(こう)はそれぞれ陰陽の定位置があって、一番下は陽、二番目は陰、三番目は陽、・・・というように、交互に正しい位置があります。

もちろん一番下に陰が来る卦もたくさんありますが、本来陽が来るべき場所に陰が来るのは「不正」といって、基本的にあまりいいとはいえないようです。

例えば63番目に来る卦は「既済(きせい)」といって、下から陽陰陽陰陽陰と各爻がすべて正しい位置にある。

これは最高の形なので、最も幸運な卦だと思いますよね。

しかし、これは「少しいい」という解釈なんです。

つまり並びとして完成しているので、あとは衰退しかない、なのであまりいいとはいえない、という解釈のようなのです。

私はこの説明を読んでびっくりしました。

さらに最後の64番目の卦「未済(びせい)」は、既済の反対で、下から陰陽陰陽陰陽とすべて「不正」の位置にあります。

普通ならば最悪のように感じますが、逆に未来があり、前の既済よりはめでたい、という解釈のようなのです。

いいことばかりとか、逆に悪いことばかりというような極端な決め付けはやめるように、ということなのでしょう。

面白いですよね。とても感動しました。

易者さんになる人はすごいなと思ってしまいます

易経には、いろいろなシチュエーションにおける人間関係のことが書かれていて、その一つ一つのエピソードを卦(か)と呼び、全部で64卦あることをお伝えしました。

そして、一つの卦は陰(--)か陽(-)の横棒六本で表現し、その横棒のことを爻(こう)と呼びます。

爻は実世界の人の身分を表していて、一番下は一番低い身分の人で、上に行くほど身分が高くなります。

以前、ソポクレスのギリシア悲劇全七篇の各篇を一つの卦に、登場人物六人を各爻に当てはめて解説した、氷見野良三著「易経入門 孔子がギリシア悲劇を読んだら」(文春新書)という本をご紹介しました。

これから分かるように、六本の爻の内容は卦ごとにそれぞれ違うので、64卦×6爻=384種類の爻があることになります。

私は易経を読み始めてまだ間もないので、正確なことは分かりませんが、易者さんは解説書も見ずに細長い棒の束で、ジャラジャラと占っていらっしゃいます。

当たり前なんでしょうが、64の卦と384の爻を覚えて自分なりの解釈をされているんですよね。スゴイ。

ある易の先生が、ブログで「易の世界は奥深く、一生かかっても学びきれないでしょう」と書いていらっしゃったので、さもありなんと思ってしまいます。

易の考え方は日常生活に役に立つようです

以前、易経の解説書を買ったことを書きましたが、あれから少しずつ読み進めています。

最近ちょっとイラッとしたできごとがあったのですが、以前と比べて気にならなくなったような気がします。

これも易経を読んでいたおかげだと思います・・・なんてことを書いてみたいのですが、そのできごとは大してイラッっとするようなことでもなかったのでしょう。

しかしその際、易経ならばここで怒るのは小人ということなんだろうな、と考えたのは確かです。

易経には、いろいろなシチュエーションにおける人間関係のことが書かれていて、ちゃんとした人や心の狭い人などが次々に登場します。

自分は後者の部類に入るのでしょうが、そのような人たちの例を読んでいくと、何が起こっても「よくあることだ」という気分になるのかもしれません。

易者さんといえば、細長い棒の束を持って、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」といいながら占うイメージがあります。

占った結果、64種類の卦(か)とよばれるもののうち、いずれかの結果が出ます。

卦というのは、先ほどあげたシチュエーションのワンエピソードです。

易経には64種類のエピソードが書かれているんですね。

昨日64番目まで一通り読み終わりました。

音楽を聴くスタイルは自分の意志では変えられないと思います

一昨日お話ししたように、私と同年代で中学、高校の頃に大好きだった洋楽を今でも聴いている人は大勢います。

大学の頃に所属していたクラシック同好会の同級生は、小学生からクラシックを愛好していたようですし、今でもみんな好きだと思います。

学生のとき好きだった音楽のジャンルは、何十年経っても好きだという人の方が大多数ではないでしょうか。

一方で、このお話のきっかけとなった私の同級生のように、一組のグループや一人のアーティストを愛し続ける人は、それほど多くはないようにも思います。

音楽への接し方はその人の自由ですし、どのスタイルがいい悪いといっているわけではありません。

とはいえ、私は学生のとき好きだったジャンルは今ではほとんど聴かず、相変わらず浅く広くつまみ食いのような聴き方をしています。

これには自分でも普通ではないと少し呆れています。

そんな中、糸井重里さんの文章を読んだことをきっかけに、ビートルズ一筋だった同級生のことを思い出して、当時も「すごいな」と感心していたことを思い出したんですね。

それと同時に、彼はある教科を熱心に勉強していて自信を持っていたこと、それを私は「すごいな」と感心していたことも思い出したんです。

一つのことに集中できるのは持って生まれた資質なのかもしれません

昨日は、ほぼ日刊イトイ新聞に糸井重里さんがビートルズについて書かれた文章から、私にもビートルズが大好きだった同級生がいたことを思い出した、というお話をしました。

私はビートルズ一筋の彼とは正反対で、いろいろなアーティストの曲をつまみ食いして行くスタイルでした。

それは成人しても変わらず、クラシックやジャズやワールドミュージックなどを浅く広く聴いてきて、今は主に古楽を聴いています。

今思うと、この嗜好は生活全般に当てはまるように思います。

実は糸井さんのその文章を読んだとき、昔のあるできごとが私の中でつながりました。

受験のとき、私は参考書一つ取ってみても、あの参考書が評判いいだの、この参考書で誰々が合格しただのと耳にしては、あっちフラフラこっちフラフラしていました。

もともと成績はよくなかったのですが、そんなやり方をしていたものですから、案の定受験に失敗しました。

このことがあってから、自分の優柔不断な性格はダメだ、なおさなければと反省し、何事も一つのことに集中するように意識してきました。

それから30年以上経ちますが、いまだになおりません。