ハイファイでなくても脳が気持ちのいい音だと判断すればそれでいいのでしょう

先日、テレビを見ていて驚いたのですが、ステレオの電流にもこだわっている方が、電力会社と契約して、電線から自宅のステレオ専用に、直接電源を引いていました。

部屋にあるコンセントだと、家電と干渉してノイズの原因になるので、それを避けたいということでしょう。

人間のこだわりはどこまでも限りがないんだな、とちょっと感動しました。

一方で、私は蓄音機でSPレコードを演奏するコンサートに行ったことがあるのですが、とても艶のある音で驚いた記憶があります。

SPレコードなので当然モノラル録音ですし、電気も使わず、大きなラッパだけで音を増幅します。

超ハイファイステレオの対極の姿ですよね。

普段、私たちはSPレコードを聴く機会なんてほとんどありませんが、それでもクラシック音楽の1950年代のモノラル録音盤ならば普通に売っています。

例えばワルターのモーツァルトやマーラーなどを聴いていて、音楽に集中していると、モノラル録音であろうがステレオ録音であろうが、私は気になりません。

物理的な特性が劣っていても、音楽を判断しているのは脳なので、脳が気持ちのいい音だと判断すれば、それで満足なんじゃないかと思います。

音楽を聴くときに求める価値は人によって違います

前回までは、聴く音楽のジャンルによってはお金と時間を使わなくて済む、というお話をしましたが、今回はちょっと違うお話です。

私は音楽を聴くときはポータブルCDプレーヤーがメインです。

というより、今はそれでしか聴きません。

もともと家の外で聴くのが好きだったのです。

コンポーネントタイプのステレオやミニコンポは持っているのですが、座ってじっくりと聴くことはありません。

私が人生で一番ステレオにお金をかけていたのは、大学生から社会人になってしばらくの間だと思います。

アルバイトしたお金や給料を、自分の趣味に丸ごと使っていた時期です。

日本はバブルに向かっていて、サンスイのアンプやダイヤトーンのスピーカーなど、今でも評価の高い製品が次々に発売されていた時代です。

ソフトの方も、CDが本格的に普及を始めた頃で、アバドのマーラーなどの魅力的なLPが、こちらも次々に発売されていました。

私は秋葉原を回って、サンスイのアンプやケンウッドのレコードプレーヤーを安く手に入れて、そのマーラーなどを聴いていました。

とはいうものの、当時の記憶は、カセットウォークマンに録音したマーラーなどを、自転車に乗ったりしながら聴いている姿なんですよね。

好きなジャンルがマイナーなものであればお金と時間は少なくてすむかも

昨日は、古楽はマイナーなジャンルのためか、よくボックス売りの安いCDが発売されるというお話をしました。

私の場合、それを聴くのはポータブルCDプレーヤーがほとんどです。

Shureの一万円くらいのイヤホンで聴いています。

iPodも持っていましたが、いつの間にか使わなくなりました。60GBだったと思います。

iPod touchはアプリチェック用に買って、音楽用には利用していません。

学生時代に何台か買ったカセットテープのウォークマンは、一本のテープを何度も聴いていましたし、ポータブルCDプレーヤーは、同じように一枚のCDを何度も聴いている。

こういう聴き方が気に入っているんですね。

もし私が、売れ筋のポピュラーミュージックが好きで、それをハイレゾ音源のポータブルプレーヤーに詰め込んで聴きたい派だったならば、当然それに見合う高いイヤホンが欲しくなっていたでしょう。

当然、お金もたくさん必要ですが、そられのジャンルは次から次に魅力的な製品が発売されますから、情報を追う時間も必要です。

もちろん、それらの時間は楽しくて夢中になるでしょうから、幸福な時間ということはいえると思います。

マニアであれば何を志向しようとお金はあるだけ使いそうです

私が中学生になって洋楽を聴き始めた頃は、ラジオで耳にする音楽がみんな刺激的で、お小遣いを貯めてはLPレコードを買っていました。

高校生になると、お昼は学食でうどんで済ませたりすればお金は浮きます。

そう考えてみると、今私が中学生だったら「安いのにいい音」を追求するかも・・・なんて昨日書きましたが、今は魅力的な製品が山のように売られていますから、音が良くなるコンバーターを買ったり、ちょっと高いイヤホンを買ったりして、結局はお金をあるだけ使ってしまいそうです。

私が高校生のときは、アルバイトもして、ギターやギターアンプを買っていました。

メーカーも学生が欲しがりそうな商品は分かっていますから、何とか手の届く範囲でロックスターと同じモデルなどを出してきます。

好きな人が多いジャンルと自分の嗜好が一致していると、いくらお金があっても足りなくなりそうで怖いです。

そのことを認識したのは、ここ十年くらいでしょうか。古楽をメインに聴き始めてからです。

クラシック音楽は、スタープレーヤーのCDは売れるでしょうが、やはり音楽全般の中ではあまり売れるジャンルではないと思います。

SPレコードやハイレゾ音源のマニアの方は何を目指しているのでしょう

昨日はLPレコードの国内生産が復活というお話を書きましたが、さらに古いSPレコードについても、マニアが増えて行けば、ステレオ雑誌にSPレコードの記事が普通に掲載されるかもしれません。

竹針へのこだわりとか、蓄音機のラッパの効率のいい鳴らし方とか。

そうなると面白いでしょうね。

SPレコードのマニアの方にとって、理想の音とはどういう音になるのでしょうか。

私は所有したことがないのでちょっと想像できません。

ハイレゾ音源のマニアの方は、デジタルなのでビットやレートが数年毎に上がって行くでしょうから、いい音の定義が難しそうですね。

例えば原音を追求するといっても、人間の可聴域がありますから、ビットやレートはどこかの時点で、人間には違いが聞き取れなくなるんじゃないかと思います。

理想は生の演奏よりもいい音を目指す、何てことになるのでしょうか。

一方で、いい音を目指したいというわけではない方もいらっしゃると思います。

SPレコードの場合は、音よりも雰囲気を重視する方もいそうです。

インテリアにマッチする蓄音機とか・・・。

ハイレゾ音源の場合はどうでしょう。

SPレコードとハイレゾ音源を同じ時代の人が聴いている不思議

先月、ソニーが日本国内でアナログレコードの生産を29年ぶりに再開する、というニュースが流れました。

何だか最近、新譜でLPレコードが発売されているようで、ちょっとしたブームなのかなと思っていたら、本格的に生産が開始されるというので驚きました。

去年、Technicsのレコードプレーヤーが復活したというので、世の中には好きな人もいるんだなと思っていたら、LPまで新譜が出るようになりました。

もう本格的な復活ですね。

学生の頃を思い出してみると、アルバムジャケットを部屋にずらっと飾っている知り合いもいましたので、LPレコードにアート作品的な価値は感じていました。

今見ても、プログレバンドなどに印象深いジャケットがありました。

ELPとかキング・クリムゾンとかイエスとか・・・。

CDに変わったら、そのような魅力はあまり感じなくなりました。

そんなことを思っていたら、今はLPレコードを通り越して、さらに古いSPレコードを売っているお店もあるようですね。

一方で、その対極にあるハイレゾ音源で音楽を聴くことも盛り上がっている。

子供の頃と体質が変わったのは親の影響という方がいらっしゃるかもしれません

自分は心配性だなと、たまに感じるときがありますが、社会生活は問題なく送れていますので、多くの人が持っている程度の心配性だと思っています。

子供の頃からそうだったので、持って生まれたものだと信じ切っていました。

しかし親元を離れて20年近く経って、再び間近で親を見るようになって、親の心配性は普通の範囲を超えているな、と発見したわけです。

親の場合は、心配性すぎて体調まで変わってしまう。

そういう姿を見ると、自分が子供の頃、アレルギー体質だったりよく腹痛を起こしていたのは、もしかすると、親と同じ極度の心配性を無意識に真似したために、体調を崩した結果だったのかもしれない、と気付いたのです。

その証拠に、親元を離れた大学生以降、あれほど悩まされていたアレルギー性鼻炎も、季節の変わり目に少し出るくらいですし、お腹が痛くなることもありません。

もちろん、成長すれば体質が変わることなんて、生理学上(という表現でいいのか分かりませんが)一般的なことなのかもしれません。

もしそうだとしても、親の影響をもろに受ける子供の頃に、親が極度の心配性でオロオロしたり騒いだりしていたら、子供も影響を受けて体調が変化するのは十分ありえることだと思います。

同じ資質を持っていれば子供は親のレベルを真似てしまうのだと思います

昨日、自分の子供の頃の心配性は親の影響だというお話をしました。

しかしそんなことをいったら、心配性なんて多くの人が当てはまるでしょうし、性格は親の遺伝が大きいので当たり前だ、と思われるでしょう。

私のいっていることは、それとは少し違うのです。

以前、子供の頃はアレルギー性鼻炎だったりよくお腹を痛くすることがあったが、成長するにしたがってその症状がほぼなくなった。子供の頃はかなり神経質だったので、その影響があるのかもしれない、という記事を書きました。

昨日は、母親が極度の心配性で、体調まで変わってしまうというお話をしましたが、これって自分の子供の頃と同じじゃないか、と気付いたのです。

自分では、成人してからも、生まれつきの心配性は親の遺伝だな、くらいに考えていました。

しかし福岡に帰ってきて、親と長い時間過ごすようになって、自分はここまで心配性じゃないな、ということを発見したんですね。

私の父親はクルマの洗車を全然しないのに、私はしょっちゅう洗車していた、ということも書きましたが、このように親と全く似ていないことは問題ないのです。

やっかいなのは、親と同じある性格を持っているのだけれど、その程度が、自分は常識の範囲内で、親は常識の範囲を超えていた場合です。

子供の頃の極度の心配性が親の影響だったことが分かりました

先日、母親が暑さで参っていると書きましたが、暑い日は血圧が上がらないとか、こういう蒸し暑い日は上がるとか、いっていることがコロコロ変わります。

昔からそうですが、かなりの心配性です。心配性すぎて体調まで変わってしまう。

糸井重里さんがイトイ新聞のコラムで、自分がやっていること、見ていることは、目に入りやすくなるというようなお話をされていました。

糸井さんのお話の内容とは少し違うのですが、なぜかそれを読んだとき、ああ、自分は母親の影響で極度の心配性だったんだと、改めて確信しました。

それまでも、漠然と親の遺伝かなくらいには考えていたのです。

物心付いたときから、間近で親の行動や発言を見聞きするので、ものごとに対する親の反応、イコール一般的な人間の反応だと思い込んでしまうのですね。

大学から東京に出ていて、40代になって再び親と長い時間を過ごすようになったので、そのことをより強く実感させられました。

本来自分の性格は、親の遺伝であったり、自分固有のものであったりすると思います。

親元を離れて生活を始めたとしても、自分の行動や反応に対して、これは明らかに親の遺伝だなとか、これは遺伝じゃなくて自分固有のものだな、というのは分かると思います。

自分の場合は仕方がないということがあってもいいと思います

若い頃に戻れるとしたら戻りたいか、とか、もし戻れるとしたら何歳の頃に戻りたいか、というような問いは、誰でも一度は考えたことがあるのではないかと思います。

確かにこのような問いは、現在切羽詰った問題を抱えていらっしゃる方にとっては、叶うものであれば叶って欲しいのだろうと思います。

一方で、そのように切羽詰っているわけではない方、私もそうですが、そのような人にとっては、あまり意味のある問いだとは思えません。

どんな人にも重大な岐路はあったと思います。

受験とか就職とか結婚とか、悔やんでも悔やみ切れない失敗をされたかもしれません。

親友や恋人と別れることになったきっかけもそうでしょう。

そのような重大なことの最中は、時間にすると短いですよね。

ところがそれ以外の時間は、本質の変わらない自分という人間が、淡々と生活しているわけです。

例えば、親友と疎遠になるきっかけの大喧嘩の前に戻ったとして、今度は無事に大喧嘩を避けることができた。

そのときはホッとするでしょうが、そもそも大喧嘩に至るまでに、何かしら大きな不満を持っていたのかもしれない。