取り入れたとしても自分に合わなくなったら取り替えればいいと思います

よく、ある言葉を聞いて目からウロコが落ちたとか、人生観が変わったなどという話を聞きますね。座右の銘を見つけた瞬間だと思います。

そういうことは確かにあるのでしょう。

でも、座右の銘にも賞味期限があるのではないかと思うのです。

あるとき見つけた座右の銘が、一生その人の座右の銘であり続けることはないんじゃないか。

人間はそれほど単純ではないと思います。

ヤドカリのように、ある時期までは心の拠り所、居場所として持っているのでしょうが、どこかで自分が変化して、自分の体に合わなくなったら、殻を脱ぎ捨てて次の居場所を探すんじゃないかと思うのです。

歳を重ねるほど、次の居場所を見つけるまでの間隔は長くなって行くのだとは思いますが。

私はその過程の中で、この考えはいいのではないか、と自分なりに納得するものを、短く言葉にして口癖にすることをこの数年間やってきました。

そうやって忘れないように、潜在意識に訴えかけるのですね。

それらは今までお話したように、自分を見つめた結果、無理なく自分に取り入れられるもの、本来の自分に合ったものだと思っています。

人が聞いたら、その一つひとつは普通のこと、当たり前のことばかりです。

自分をよく見つめて自分に合いそうなものを取り入れて行けばいいと思います

21世紀になっても、国民的アイドルグループのSMAPが「世界に一つだけの花」という曲を出すくらいですから、一人ひとりは全く違う人間だという認識が浸透してきたのは最近ではないかと思います。

子供のころから学校では、教科書の問題、例えば国語の「このとき作者はどのように思ったか答えなさい」のように、クラス全員が一つの解答に導かれるように訓練されて、私に限っていえば、そのことに疑問を持たずに大人になったように思います。

今は全く違うのかもしれませんが、私が小学生だった1970年前後は、全体行動を意識していたように記憶しています。

私の場合、そのような思い込みが、「こうすれば性格を変えられる」とか「こうすれば自信が持てる」という文章に接して、そのとおりに実践したのに、上手く行かない自分はやっぱり落ちこぼれだ、と決め付けていたのではないかと思うのです。

そうではなくて、まずは自分をよく見つめて、より自分が解るようになってから、そのような話に少しずつ耳を傾けて行く。

意思の力でこうあるべきという方向に変えるのではなくて、本来の自分に合ったものを発見して行くという方向です。

まだ経験が少ない若い人は、ある程度年齢を重ねるまで難しいと思いますが。

その人の個性に合った方法じゃないと変わらないのではないでしょうか

昨日は、意志の力で自分の心を変えることはできないんじゃないか、というお話をしました。

本当に変えたければ、手術とか薬物とかの方法で、脳を物理的に変えるしかないんじゃないか。

そこまではちょっと、ということであれば、よくいわれるように、環境を変えることになるんだと思います。

職を変えるとか住む場所を変えるとか。

しかし、そこまでダイナミックに自分に変化を起こそうとすれば、私のような歳になると、被害を最小限に抑えたい人が大多数でしょうから、自分のことをよく理解した上で、自分の心がそれを望んでいるかを確認する。

そう考えると、自分を理解することの行き着く先は、自分の脳や遺伝子の様子を知るということとあまり変わらないように思います。

それが不可能なことは分かっていますので、多くの人は(いい方は悪いですが)どこかで妥協するのでしょうし、それがその人の個性ということになるのかもしれません。

人によってその判断の拠り所が、哲学であったり、仏教であったり、複雑な中国の五行占術や西洋の占星術であったり、・・・するのだと思います。

取り留めのない話になってしまいましたが、私のいいたいことは、その人の個性といっても、たくさんの要素が集まってできたものです。

性格を変えるとか自分を好きになるというのは意思の力では難しいと思います

昨年から「LIFE SHIFT(ライフ・シフト)100年時代の人生戦略」(東洋経済新報社)という本が売れているようで、今でも書店でよく見かけます。

時を同じくして、AIもどんどん身近になってきましたし、仮想通貨の話題も盛り上がっているようです。

以前より第四次産業革命などといわれても、今ひとつ実感がわかなかったのですが、ここに来て身の回りのものや価値観が、徐々に新しいものに置き換わっているように感じています。

これだけ新しいものが浸透し、寿命も伸びて行けば、ほとんどの人が否応なしに、自分の立ち位置を考えざるを得なくなっているように思います。

その度合いは人によって違うのは当たり前でしょうが、私のように、パニック障害などの心の問題をかつて抱えていた方や、今抱えている方は、そんなときちょっと困った感覚を持つのではないかと思うのです。

つまり、自分に自信がある人とか、自分を好きな人(自己肯定というのでしょうか)は、時代がどんなに変化しようが、今までどおり生きていればいいというような余裕を、心のどこかに持っているんじゃないか。

そう考えるたびに、私の場合はですが、自分の立ち位置を考える前に、まず最初に性格を変えるとか、自分を好きになるとか、そういう努力が必要じゃないのか、と思ってしまうのです。

興味があって自分にもできそうなところを見習うしかないですね

糸井重里さんの「ほぼ日刊イトイ新聞」は、各コーナーがキューブのように(縦長ですが)レイアウトされていて、PCでもスマホでも、いろいろなサイズの画面に対応するレスポンシブなWEBサイトです。

同じようにカスタマイズにするのは無理だとしても、WEBサイトのあちこちに表示されている、綺麗で分かりやすくデザインされたアイコンは参考になります。

こういうところを見習いたいです。

商品取り扱い店舗としてリンクされているLOFTのWEBサイトも、とてもクオリティが高いです。

こちらも似たテイストですかね。キューブのレイアウトに綺麗な写真やアイコンがたくさんあります。

これらのようなWEBサイトを真似するなんてとてもできませんが、自分がいいなと感じることで、自分ができそうなことを見つけて行くしかありません。

ちなみに、Score Magazineの音符データは私が描いたのですが、そのときからベジェ曲線を描いていますので、Illustratorは結構慣れています。

先ほどから書いているように、自分は妙にアイコンに目が行くんですよね。

Bootstrapのアイコンなんかもそうです。多分好きなのだと思います。

ホームページのデザインをできる範囲で何とかしようと思いました

糸井重里さんの「ほぼ日刊イトイ新聞」のWEBサイトがリニューアルされていますね。

以前より各要素がくっきりと分かりやすく、角のないやさしいデザインだったのですが、それがさらに素敵になりました。

自分のWEBサイトと比べてみると、比べることさえ申し訳ないのですが、あまりの素っ気なさにため息しか出ません。

Bootstrapのテーマを入れてなかったら、恐ろしいことになっていたに違いありません。

今、お付き合いのある会社のWEBサイトをお手伝いしていて、コンテンツを充実させるのに一生懸命だったのですが、新しい「ほぼ日」を見てしまうと、デザインの方も何とかしなければと思ってしまいます。

何とかするといっても、デザイナーさんを雇うのは難しいので、自分のできる範囲で何とかしなければなりません。

昔お付き合いのあった社長さんで、Illustratorで妙に上手いキャラクター画を描かれる方がいたのですが、人には得意なことがあるものだなと感心したものです。

同じく昔お付き合いのあった団体ですが、スタッフが持ち回りで撮った写真を、デザイナーさんがホームページにレイアウトしていて、とてもお洒落なデザインでした。

SF小説は書かれた当時の世界観を楽しめる人じゃないと手を出しにくいと思います

ここ数日、SF小説を読んでいる人はあまりいないんじゃないか、というお話をしてきました。

クラークの「幼年期の終わり」やブラッドベリの「火星年代記」は有名な古典なので、読んだ人は多いと思いますが、私のように衝撃を受けるほどではなかったので、他のSF作品を手に取るまでには到らなかったのかもしれません。

私の場合は同じような体験をしたくて、当時本屋さんに行っては、SFコーナーに並んでいる興味をそそられるキャッチコピーが載っている本を買っていたんだと思います。

他のSF小説で同じような衝撃を受け続けていたら、実際にはそうならなかったのですが、SFオタクといわれる方のようになっていたかもしれません。

しかし考えてみると、江戸時代とまではいわなくても、昭和の初め、まだ夜中はいたるところに暗闇が残っていた頃、お化けの存在は身近だったようですし、人類がまだ宇宙に飛び立っていなかった頃は、宇宙人も逆にリアリティをもってイメージされていたんじゃないかと思います。

私たちが子供の頃、ロボットといえば鉄人28号のような姿を想像していましたが、石黒浩さんの作るようなアンドロイドを見慣れている今の子供たちがロボットを想像するとすれば、私たちとは全然違うものになると思います。

映画やアニメのカッコイイ世界じゃないと人は興味を示さないのかもしれません

なぜSF小説を読む人が少ないのか、嫌いな理由でもあるのか、インターネットで検索してみたのですが、特に目立った理由はないように感じました。

そもそも関心がないのでしょうか。

しかし、昔から「スタートレック」などは熱狂的なファンがいますよね。

「スター・ウォーズ」も新作が発表されるたびに大変な話題になります。

日本でも、古くは「宇宙戦艦ヤマト」や「機動戦士ガンダム」など、今でも大くのファンがいます。

それらには宇宙人もロボットも登場しますので、SF小説の世界観そのものに関心がないというわけではなさそうです。

実際に「重力の使命」を読んでみると、ムカデのような姿をしたメスクリン人が人間と英語で会話しています。

私は他のジャンルの小説と同じように、すぐにその世界に入り込んで、面白く読んでいます。

ムカデの姿なので、人間が手を使ってやるのと同じ行為をするときはハサミを使うのですが、それが文章で記述してあると、多くの人はそのイメージについて行けない、面白さを感じない、ということなのでしょうか。

考えてみれば、ガンダムのモビルスーツのガンプラなんてカッコイイですよね。

読みたい本がたくさんあってSF小説の存在を忘れていました

数年前に、ジュール・ヴェルヌの「海底二万里」のような古典は読みましたが、宇宙人が出てくるようなバリバリのSFは読んでいません。

別に嫌いになったわけではないので、なぜそうなったのか不思議に思い、本棚から二冊引っ張り出して読み始めています。

一冊目はハル・クレメントの「重力の使命」(ハヤカワ文庫)、二冊目はケイト・ウイルヘルムの「鳥の歌いまは絶え」(サンリオSF文庫)です。

前者は裏表紙の解説に「ハードSFの金字塔」と書いてあり、後者は表紙に「ヒューゴー賞・ジュピター賞受賞」と書いてあります。

当時はこういう宣伝文句に反応して買っていたんですね。

それなのになぜ読まなくなったかというと、社会人になってから、他に読みたい本というか、読んどいた方がよさそうな本に目が移って行ったからなんじゃないか、と自分では思っています。

新聞や雑誌にはベストセラーの宣伝があったり、新刊の書評やお薦め本コーナーなどがありますが、SFは読む人が少ないのか、そのようなところではあまり見かけません。

数年に一冊は、ピケティの「21世紀の資本」だったり「嫌われる勇気」だったり、知っていて当然のような大ベストセラーが生まれます。

まずそのような本に注目が集まりますよね。

AIが身近になってSF小説を読んでいないことに気付きました

先日、AIのアルファ碁が、世界最強とされる中国人棋士の方に三連勝して話題になりました。

私も昔、入門書を買ったりして囲碁をかじったことがあるのですが、才能がないと思ってすぐにあきらめました。

囲碁を覚えたら老人になっても楽しめる趣味になる、と妙な動機で始めたのですが、将棋と違って囲碁は升目もたくさんあって、碁石をどこに置いていいものやら、私には楽しめるようになっている自分を想像できませんでした。

もちろん、上手い人たちのレベルになると、囲碁も将棋も奥深さや難しさは同じだと思います。

コンピューターで囲碁の対戦プログラムを作るというのは、すごいアルゴリズムだろうなと感心してしまいます。

私の子供の頃を思い出すと、大阪万博には未来の生活をイメージしたパビリオンがあったり、テレビにはSFのドラマやアニメが溢れていましたので、子供ながらに21世紀は宇宙旅行ができるとか、家にはロボットの家政婦さんがいるなど、当然のように信じていました。

現実は全くそんなことはありませんでしたが。

とはいうものの、前述のアルファ碁を初め、ここ数年AIが急に身近になってきたように感じます。