荘子にも自分の解釈を変えることに繋がる話が豊富に出てきます

NHK「100分de名著」ブックスのシリーズに、玄侑宗久さんの「荘子」があります。

なぜ禅宗のお坊さんが荘子なんだろうと思いましたが、読み進めるうちに、仏教にも通ずるものがあることを知りました。

端的な例として、荘子には、坐禅にきわめて近い坐忘(ざぼう)という「行」のエピソードがあるようです。

顔回(がんかい)という孔子の弟子が、孔子に坐忘を行ったときの心境を伝えるくだりがそれで、玄侑さんは、荘子もこの「行」に取り組んだ時期があるのではないかと仰られています。

世界史の教科書に出てきた鳩摩羅什は、経典を漢訳して中国に仏教を普及させた人ですが、それまでは、主に老子や荘子の言葉を流用して漢訳されていたそうです。

それほど、老子や荘子と仏教は相性がよかったということらしい。

達磨が開祖といわれている中国禅宗は、嵩山(すうざん)が発祥の地といわれています。

この地も、道家(道教)の本拠地だったそうで、それほど老子、荘子には禅を受け入れる下地があった、ということのようです。

私も個人的に、荘子の話を荘子とは知らずに、折に触れて思い出してきたように思います。

例えば、何か辛いことがあったときに、時間が経てば「胡蝶の夢」のように何でもないことで終わっているかもしれないし、と気を紛らわせたこともありました。

今にして思えば、人間の狭い視点ではなく、荘子の説く万物斉同に近い視点に気付かせてくれたのかもしれません。