芸術作品の創作と瞑想との相性について興味深い指摘がありました

プラユキ・ナラテボーさんと魚川祐司さんの対談「悟らなくたって、いいじゃないか」(幻冬舎新書)を読んでいたら、最後の方に興味深い指摘がありました。

横尾龍彦さんという画家の方が、五十代に入って精神的な悩みを抱えていたので、禅の山田耕雲老師に参禅修行を願い出たところ、山田老師から「絵が描けなくなるよ」といわれたとのこと。

「それでもいいです」ということで禅をやられたら、実際に描けなくなった、と。

以下、そのことに関する魚川さんの見解の抜粋です。

「「心に生じてくる想念を、価値判断を差し挟まずに観察して、それにはまり込まない」ということは、浮かんでくる創作上のイメージに関しても、それを追いかけて没入するという行為をいったん停止するということです。そういうマインドフルな心のあり方が常態化すれば、創作に際して対象のイメージに人格の全てを集中して、それを展開させるという、ある種の芸術制作には必須の精神的なモードは、起動させにくくなるでしょう。」

横尾さんは「見性(禅における、一種の「悟り」体験)を認められるところまで修行を進めた」そうなので、禅や瞑想をすると誰もが絵を描けなくなるわけではないのだと思います。

ただ、瞑想をするということはそのような状態を選択することだと自覚した方がいい、と魚川さんはご指摘されています。

う〜む、難しいところですね。

プラユキさんは少し違うご意見をお持ちのようですので、プラユキさんの他の著作を読んでそのことを確認していいようにも思いますし、私は自分のプチ瞑想で十分心が落ち着くので、瞑想に関しては今のまま何も変えなくていいようにも思います。

この件については、もう少し時間をおいて考えてみようと思っています。