ユング派心理療法の感性が易の解釈などに役に立つように感じています

数日前、岡野守也著「仏教とアドラー心理学」(佼成出版社)を読むことで、個人的になぜユングや河合隼雄さんの本が好きなのかが分かったと書きました。

今日も河合さんの「ユングと心理療法」(講談社プラスアルファ文庫)を読んでいたら、面白いなぁと思うところにいくつか出くわしたので、少し抜粋してみたいと思います。

夢の分析に際して、治療者が自分の夢を記録して細かく分類するようなことついて、河合さんの見解が述べられている箇所です。

「「学者」としては、そのようなことをいちいち記録し、また条件も細かく分類などして発表すべきかとも思われる。しかし、そのような「学者的」態度を放棄してしまっているから、このような深い主観のかかわる現象がよく起こるのではないか、とも考えられる。この点については簡単に断定できないが、筆者自身は、ともかく治療がうまく行われることがいちばん大切で、発表などのことはあまり重要でないと思っている。」

また治療者は、自分の半身が「患者」であること、自分が「病んでいる」と自覚することの重要性を、次のように指摘されています。

「後にも明らかにするように、癒されるものと癒すものとの区別は、思いのほかに判然としないものである。治療者が自分自身を「健康で病むところのないもの」と錯覚するとき、スイスのユング派分析家グッゲンビュールが鋭く指摘するように、治療者元型が分裂を起こし、治療者は治療者、患者はあくまでも患者となってしまって、患者がその自己治癒力を発揮する(つまり、患者自身の中の治療者元型をフルに作用させる)ことがなくなってしまうのである。」

あくまで個人的にですが、このような感性が、易の解釈とか唯識仏教の心所有法の気付きなどに役に立つのかもしれないな、と感じています。