もし寿命が残り○ヶ月だとしたらという仮定も目標がある人には有意義かもしれません

インターネットを見ていたら、自分の本当にやりたいことを知りたければ追悼文を書いてみよう、という内容の記事を見つけました。

自分の葬式で知人が自分のために読み上げる追悼文の内容を想像して、どういう感情が湧いてくるか観察することで自分の本心を知る、ということのようです。

スティーブ・ジョブズの有名なスピーチ、「もし今日が人生最後の日だとしたら、今やろうとしていることは本当に自分のやりたいことだろうか?」というのと似ていますね。

余命を宣告されたと仮定して遺書を書いてみよう、というパターンもあるようです。

「○○できなかったことを後悔している」という内容を書き出すことで、自分のやりたいことを再確認したり発見したりするということですね。

確かにどれも、本当にやりたいことが分かりそうだと思います。

しかし一方で、それが分かっても分かる前とあまり変わらないような気もします。

もし私が「余命三ヶ月です」と宣告されたと仮定して、日本全国をバイクでツーリングなんていいかなと思ったのですが、よく考えてみると三ヶ月は長いです。

例え一ヶ月でも楽しみがずっと持続するとは思えません。どこかで虚しくなるような気がするんですね。

これが余命一年とか二年とかになると、ちょっと変わってくるようにも思います。実現できなくても、何かに挑戦できる過程で幸せを感じることはできそうです。

とはいえそれが子供の頃の夢に挑戦みたいなことになると、実現はほぼ不可能な内容が多そうですから、それはやめた方がいい。

そうなってくるとこのような仮定は、もし人生のささやかな目標のようなものを持っている人にとっては、それを再確認するくらいしか役に立たないような気もします。少なくとも私はそうでした。

ただ再確認することで、このまま続けて行けばいいんだなと確信することができたので、その意味ではこのような仮定も有意義だと感じました。