潜在意識

洋楽を聴き始めた頃のことを思い出して今でも行動が変わらないことに驚いてしまいました

ここ半年ほど用事があって夜ふかしをすることが多いです。

用事が終わってすぐ寝ればいいのですが、疲れていて心が癒やしを求めているのか、ついインターネットで面白そうなサイトを探してしまいます。

最近やってしまうのが、中学生になって洋楽に目覚めた時期によく聴いていた曲を聴くこと。

当時はレッド・ツェッペリンやジェフ・ベックのようなハードな曲を大音量でかけて、持て余し気味のエネルギーを発散させることが多かったのですが、それ以外にもフォークやアメリカン・ポップスなど幅広いジャンルを聴いていました。

深夜に当時の曲を聴いていると、そのときの思い出が蘇ってきます。

とくにシットリとした雰囲気のある曲を聴くと、そのとき感じていた気分を思い出すんですね。

琴線に響く部分が四十数年経っても全く変わらないことにちょっと衝撃を受けました。感性なんて人間は生まれつき変わらないものなのか、私だけがそうなのかは分かりません。

当時の記憶をたどっていたら、感性どころか考え方も変わっていないように思えてきました。

ですので、考え方に基づく行動も当時とあまり変わっていません。行動する範囲が学校中心かそうでないかの違いだけで。

嫌な気分もついやってしまう好きな世界を豊かしてくれるんじゃないかと思います

この二日ほど、ついやってしまうことをやれる時間を増やせば、その分幸福になれるんじゃないかということを書いています。

誤解されると困るのですが、悩みグセのある人が小さなことでつい悩んでしまって暗い気持ちになる、というようなこととは違います。

ここでいうついやってしまうことというのは、少なくともそれをやっていて嫌な気分にならないことです。

「やらなければ」という意志の力ではなく無意識にやってしまっていて、ふと我に返ると嫌な気分ではないのですから、心が望んでいるんですよね。

もちろん、つい悩んでしまう人がふと悩んでいることに気がついて、「楽しいな」、「ワクワクするな」と感じるならば、私のいっていることに当てはまります。そのような人はあまりいないとは思いますが。

ただいくら好きでも嫌な気分になるときはあるんじゃないか?

例えば小説や脚本など、頭の中にストーリーを描くのが好きな人がいて、話の流れの中でどうしても自分の嫌な思い出に触れるような展開になったときに、嫌な気分になるんじゃないか・・・。

しかし、それはその人にとってどんなときでも嫌な気分になる思い出であって、頭の中にストーリーを描く行為とは関係ありません。

ついやってしまうことをやれる時間を増やすアプローチはいくつもあると思います

昨日のお話をもう少し補足してみます。

ついやってしまうことをやれる時間を増やすことが幸福につながるんじゃないか、ということを書きました。

例えばギターを弾くのが大好きな人がいたとしますよね。

ふと気がつくとギターを持って弾いている。それほど好きだと。しかも元々才能があったのでしょう、とても上手い。

バンドを組んで演奏していたら業界の人の目に留まって、ミュージシャンのレコーディングに呼ばれたりするようになる。

上手いと評判になったりすれば仕事もどんどん入って、本人も好きだから仕事以外でもギターを弾いている。そしてますます上手くなる。

ちょっと極端だと思いますが、ついやってしまうことをやれる時間が最も多い人の例だと思います。

もちろん現実は、絵が好きで気がつけば絵を描いている人でも、画家で食って行ける人はほとんどいないでしょうし、イラストレーターになれたとしても、商業デザインの世界ですからあまり乗り気のしない仕事ばかりかもしれません。

そうなったときに、自分の好きな絵を描くためにはどうすればいいかもう一度考えなおして、自分の好きな絵に近いものを後継者不足の伝統工芸の世界に発見するかもしれません。

ついやってしまうことをやれる時間を増やすことが幸福につながると思います

今日インターネットを見ていたら、自然ばかりで何もない外国を旅した人の話を見つけました。

その人によると都会にはいろいろなノイズがある。誰々が○○しているから自分も○○しなきゃというように、今の自分ではいけないという強迫観念にかられる。

しかしその国にいると自分は今のままでいい、ありのままでいいということに気づかせてくれる・・・というようなことが書かれていました。

最近自分の中で似たようなことを考えていたので、ああやっぱりそうだよな、と納得してしまいました。

先日余命を宣告されたと仮定することは、次々に新しいことに手を出す悪い癖をなおす口癖に使えそうだと書きましたが、そのあと続けて考えていたことなのです。

新しいことに手を出すまでもなく、今のまま、ありのままの自分でいても生産性があり、創造的であり、幸福を感じられるはずだと思うんですね。

よく、ついやってしまうこと、気がついたらやっていることは好きなことであるということを聞きますが、これなんてありのままの自分がやることそのものですよね。

余命宣告の仮定は手を広げすぎることを戒める口癖に使えるかもしれません

昨日は余命を宣告されたと仮定して遺書を書いたとして、自分の本当にやりたいことが分かるだろうかというお話をしました。

余命宣言というのは数ヶ月、長くても一年くらいのものでしょうか?そのくらいの期間で、例えば子供の頃の夢を叶えるために行動しても現実的には難しいでしょうから、本当にやりたいことが分かるというよりは、人生の目標のようなものを持っている人にとってそれを再確認するくらいのことには役に立つかもしれない、という内容でした。

しかし今日考えていたのは、余命宣告の仮定は、自分の悪い癖である手を広げすぎることへの戒めに使えるかもしれないということ。

手を広げすぎるというのは、例えば将来仕事に結びつきそうなことを思い付いたら熟慮せずにすぐに始めてみたり、これを身に着けたら仕事にプラスになるかもしれないと新しいジャンルの本を買ってしまったり、みたいなことです。

このような本なんて買って読んだところで未消化に終わる場合がほとんど。私と同じような人は多いと思います。

ここ数日もやることがいろいろあるのに、気が付いたらそのような本のAmazonのブックレビューを読みふけっていました。

そんななか余命宣告の仮定を思い出したわけです。

もし寿命が残り○ヶ月だとしたらという仮定も目標がある人には有意義かもしれません

インターネットを見ていたら、自分の本当にやりたいことを知りたければ追悼文を書いてみよう、という内容の記事を見つけました。

自分の葬式で知人が自分のために読み上げる追悼文の内容を想像して、どういう感情が湧いてくるか観察することで自分の本心を知る、ということのようです。

スティーブ・ジョブズの有名なスピーチ、「もし今日が人生最後の日だとしたら、今やろうとしていることは本当に自分のやりたいことだろうか?」というのと似ていますね。

余命を宣告されたと仮定して遺書を書いてみよう、というパターンもあるようです。

「○○できなかったことを後悔している」という内容を書き出すことで、自分のやりたいことを再確認したり発見したりするということですね。

確かにどれも、本当にやりたいことが分かりそうだと思います。

しかし一方で、それが分かっても分かる前とあまり変わらないような気もします。

もし私が「余命三ヶ月です」と宣告されたと仮定して、日本全国をバイクでツーリングなんていいかなと思ったのですが、よく考えてみると三ヶ月は長いです。

例え一ヶ月でも楽しみがずっと持続するとは思えません。どこかで虚しくなるような気がするんですね。

病気を経験すると無意識が健康を意識して食の嗜好まで変えてしまうのかもしれません

今日は近所の病院に行ってきました。

夕方5時を過ぎると学生さんや仕事帰りの社会人の方で混むので、仕事を一旦中断してその時間よりも前に行きます。

それでも作業着を着た若い男性が二人来院していました。

今日は特に寒いので風邪かもしれませんが、以前隣の薬局で、私と同年代くらいの方がたくさんの薬を前にして薬剤師さんから説明を受けているのを見たとき、自分くらいの年齢になると持病を持っている人は多いんだろうなと思いました。

数年前に入院したとき、病院の六人部屋で若い方を除いた四人の方が高血圧の薬をわたされているのを見て、同じことを感じました。

生まれつき体が弱い人もいるのでしょうが、ストレスを含む生活習慣から来る場合が多いような気がします。

以前職場に喘息持ちなのにタバコを吸う人がいましたし、知人で血圧がとても高いのにお酒をたくさん飲む人もいます。

学生のとき、かなり肥満でよく食べる同級生がいたのですが、これから友達の家で鍋をやるというのに大きな巻き寿司を買ってきて、一人でペロッと食べていたのには心底驚きました。

その彼が、何年か前に人づてに透析を受けているという話を聞いたとき、暴飲暴食を続けていたのかなぁと思ったものです。

大きな目標のようなものも一生かけてやってよければ少しは気が楽だと思います

今まで何度も「自信を持とう」とか「覚悟を決めよう」というような口癖を身につけようと試みたのですが、潜在意識が拒否しているせいか自分には無理なようです。

しかし発想を変えて、自信や覚悟のようなものは一生かけて育てて行けばいいんじゃないか、ということに気付いたことを昨日お話しました。

これはどういうことかというと、以前バイオリンと英語を習慣化できていることを書きました。

習慣化といっても「毎日数分間だけ」なので、とてもバイオリンが弾けるレベルにも英語ができるレベルにも達していません。

英語は小説を読んでいるのですが、一行読むごとに一回以上辞書を引いていますので、数行でその日のノルマは終わります。

それでも何年か続いているのは、バイオリンの音と外国語が嫌いではないからでしょう。

じゃあなぜこんな英語のやり方を始めたかというと、「英語を学ぶということは一生学び続けるということ」という話をどこかで読んだからなのです。

それまでは英語なんて絶対に無理と思っていたのですが、「一生かけて勉強していいならば、死ぬ間際になっても英語ができなくていいんだ」と、すごい気楽さを感じたんですね。

自信や覚悟のようなものは一生かけて育てて行けばいい気がしています

先日数回にわたって、よくない思考の癖をなおすには口癖が効果があるというお話をしました。

それに加えて、口癖は何でもいいわけではなく、潜在意識が納得するものでないと定着しないのではないかということも書きました。

とはいうものの昔から上手く行かないことがあって、その原因が分かっているときは、潜在意識云々に関係なく何とかしたいと思うのは当然だと思います。

私にも上手く行かないことはたくさんありますし、その原因は意思が弱かったり自信がなかったりというような、メンタルの占める割合は大きいと感じています。

そこで以前より、自信を持とうだの覚悟を決めよう、というようなありがちな口癖をいってみたりするのですが、潜在意識の壁に阻まれてあえなく失敗してしまうんですね。

考えてみれば、「自信の持ち方」とか「覚悟の決め方」というようなタイトルのWebページや本が溢れているということは、多くの人がやりたくてもできないからなのでしょう。

もちろんそれらをできる人がいることは知っています。

「根拠のない自信を持てばいいんだよ」みたいなアドバイスをされていたりします。

そのようなアドバイスも参考に自分なりに試してきたつもりですが、結論として自分には無理だろうなと思っています。

日頃から無意識にやっていることは得意なことなんだと意識するための口癖です

昨日は、自分にとってよくない思考の癖をなおしたいと思って、自分の希望する言葉を口癖にしようと試みても、潜在意識が納得していなければ上手く行かないというお話をしました。

そのような反省をもとに最近口癖にしようと思ったのは、人から見ると「そんなこと・・・」といわれてしまいそうな普通のことですが、自分にとっては子供の頃から無意識にやっていること。客観的に見ればそれが得意なことなんだと思います。

昔小学校の先生を退職した人から聞いたのですが、教員の中にはそれほど子供が好きではない人がいて、やはり苦労しているようなところがあったらしい。今の学校ではどうなのか分かりませんが。

昨日書きましたが、私はゲームが大好きというわけではなかったので、この話はある程度納得できます。

自分では子供の頃から人並みにゲームは好きだと思っていましたし、ゲームセンターでたくさんお金を使ったゲームはいくつもあります。

しかしそれを職業にするというのはちょっと違うと思います。

これも経験したからそういえるのですが、もう少しちゃんと意識していれば、もっと早く別の道に進めたんじゃないかとも思います。

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