潜在意識

タモリさんの博識ぶりを見て他人に期待しないためにはそれも必要なのかなと思いました

以前ブログで、タモリさんのおっしゃった「他人に期待しない」というのを口癖にしてみたら、いい感じだったということを書きました。

今日も近しい人から理不尽なことをいわれてムッとしたのですが、この言葉を思い出して「しょうがないなぁ」と気持ちを切り替えました。

自分が理不尽だと思ったことも相手にとっては言い分があるのでしょうし、近しい人であればあるほどストレートに感情をぶつけてしまうのはしょうがないとも思います。

そんな感じで、あれから結構この口癖に助けられていますので、テレビでタモリさんを拝見したときは、ふとこの口癖のことを思い出してしまいます。

前々からNHKの「ブラタモリ」を見ていて、タモリさんの博識ぶりにいつも驚いていたのですが、最近思うのは「他人に期待しない」ためには、ある程度自分で解決できることが前提なのではないかということ。

極端な話、自分で何でもできたり何でも知っていたりすれば、他人に期待する必要もありません。

もちろんそんなことは不可能でしょうが、できないことや知らないことがあったとしても、代替案なり別の知識で代用するなりして、自分で納得できる結果を導き出せればいいわけです。

もしそれを試みても無理だった場合は、諦めもつくんじゃないでしょうか。

感情がクラウドを全面的に信頼するようになるにはもう少し時間がかかるかもしれません

いつもはChromebookで仕事をしているのですが、昔から使っている業務用ソフトで仕事をするときはWindows 7パソコンを起動しています。

しかしこのパソコンはメモリが4MBなので、ソフトやWebブラウザを複数起動したら動作が遅くなります。

この業務用ソフトを使う必要はないけれどもWindowsを使いたい、というときには、先日買ったメモリを8MB積んでいるWindows 10パソコンを起動します。

最近気が付いたのですが、Windows 7に保存しているパスワードなどを記載したファイルをWindows 10パソコンで開きたいときは、メモリスティックにコピーして持って行きます。

これは私だけかもしれませんが、クラウドに保存したくないんですね。

仕事の書類は、平気でGoogleドキュメントやGoogleスプレッドシートなどのクラウドに保存しているのに。

メモするときによく使っているEvernoteやGoogle Keepにもパスワードは書きません。

仕事の書類にしろメモにしろ、当たり前ですが、パスワードと同じように人に見られたくはありません。

にも関わらずこの違いは何なのでしょう。

仕事に対して心が前向きになる欲であれば肯定して行こうと思いました

昨日は、仕事を選ぶ際に「好き」で選んでも飽きてしまったときに困る、とはよく聞く話で、私も飽きっぽいので悩んでしまうというお話をしました。

そんなときインターネットで、「自分がどうありたいか」にこだわって仕事を選べば悩むことはなくなる、という記事を見つけたわけです。

これには納得しました。「好き」は飽きるけど「自分がどうありたいか」は飽きません。

たぶん後者は欲望というか本能だからだと思います。

正直、欲望を原動力に生きるというのは、心のどこかがちょっと嫌がっている感じはします。

例えば足るを知らない人が最後にはどうなるかという物語は、子供の頃から折に触れ聞かされてきました。

私は仏教の本をよく読むので、欲という言葉にはやはりネガティブなイメージを持ってしまいます。

一方で人間の三大欲求の「食欲」、「性欲」、「睡眠欲」なんて、否定したら人間の生活が成り立ちません。

そもそも仕事は営利活動ですし、「営利」を辞書で引くと「金もうけ」が出てきます。嫌がること自体おかしなことかもしれません。

それによく聞くのは、欲にしても感情の「怒り」にしても、人間の本能を抑え続けるとろくなことにならない。

心の病気の原因にもなりますよね。

通勤時間帯に空いているバスを見て軽い衝撃を受けるのはトラウマのせいだと気づきました

夕方近所のスーパーに夕食の買い出しに行くのですが、国道に面しているのでよくバスを見かけます。

私が学生の頃は地下鉄も通っていなくて、中心街に出るための交通機関はこのバスしかありませんでした。

この通りのバスは利用者が多いことでも有名で、ブログでも何度か書きましたが、学生街や福岡ドーム、福岡タワーが周辺にある西新という街を経由して天神に至る路線なんですね。

通勤、通学の時間帯になると、渋滞でバスは動かないは乗客は満員でギュウギュウ詰めだはで、いつも大変な思いをしていました。

西新駅よりも前のバス停で降りて歩いたことが何度もあります。

そんな路線のバスが、今は乗客が少なくてスカスカなんですね。

その光景を見るたびに軽い衝撃を受けます。

交通量は相変わらず多いので、より一層乗客の少ないのが目立ちます。

しかし、なぜバスを見るたびに軽い衝撃を受けるんだろうとふと考えたんですが、多分トラウマのようになっているんじゃないかと思い当たりました。

思い返してみると、人の入る隙間のないくらい混んでいる車内で、渋滞でバスが全く動かずにしばらく停止していることはしょっちゅうでした。

横着をしないで自分でやる気の出る方法を考えることにします

ここ数日、忙しかったので今日は仕事のやる気が出ませんでした。

こういうときはどうしたものかなとインターネットで調べていたら、「意志力は有限である」という記事を発見。

ロイ・バウマイスターという心理学者が行った実験によると、クッキーを食べることを許可したグループと我慢するように命じたグループに分けて難しいパズルをやらせたところ、クッキーを食べたグループの方がパズルをより長い時間取り組んだそう。

クッキーの我慢を強いられたグループは「我慢の蓄え」がすでに消耗しており、新しい課題を与えられるとすぐに投げ出した、とあります。

そうか。私は仕事で疲れてしまって「我慢の蓄え」が消耗していたんですね。

さらに記事は続きます。

「意志力は有限な資源」なので無理に手を広げすぎてはならない。決心はたくさんではなくてひとつにすべきだ、とのこと。

なるほど。私があれやこれやに手を出してしまって、結局ひとつもものにならないのは、「意志力」が枯渇してしまうからなのでしょう。

Amazonで調べてみると、この心理学者の著した「WILLPOWER 意志力の科学」(インターシフト)という本があるようです。2011年のamazon.com年間ベストブックらしい。

洋楽を聴き始めた頃のことを思い出して今でも行動が変わらないことに驚いてしまいました

ここ半年ほど用事があって夜ふかしをすることが多いです。

用事が終わってすぐ寝ればいいのですが、疲れていて心が癒やしを求めているのか、ついインターネットで面白そうなサイトを探してしまいます。

最近やってしまうのが、中学生になって洋楽に目覚めた時期によく聴いていた曲を聴くこと。

当時はレッド・ツェッペリンやジェフ・ベックのようなハードな曲を大音量でかけて、持て余し気味のエネルギーを発散させることが多かったのですが、それ以外にもフォークやアメリカン・ポップスなど幅広いジャンルを聴いていました。

深夜に当時の曲を聴いていると、そのときの思い出が蘇ってきます。

とくにシットリとした雰囲気のある曲を聴くと、そのとき感じていた気分を思い出すんですね。

琴線に響く部分が四十数年経っても全く変わらないことにちょっと衝撃を受けました。感性なんて人間は生まれつき変わらないものなのか、私だけがそうなのかは分かりません。

当時の記憶をたどっていたら、感性どころか考え方も変わっていないように思えてきました。

ですので、考え方に基づく行動も当時とあまり変わっていません。行動する範囲が学校中心かそうでないかの違いだけで。

嫌な気分もついやってしまう好きな世界を豊かしてくれるんじゃないかと思います

この二日ほど、ついやってしまうことをやれる時間を増やせば、その分幸福になれるんじゃないかということを書いています。

誤解されると困るのですが、悩みグセのある人が小さなことでつい悩んでしまって暗い気持ちになる、というようなこととは違います。

ここでいうついやってしまうことというのは、少なくともそれをやっていて嫌な気分にならないことです。

「やらなければ」という意志の力ではなく無意識にやってしまっていて、ふと我に返ると嫌な気分ではないのですから、心が望んでいるんですよね。

もちろん、つい悩んでしまう人がふと悩んでいることに気がついて、「楽しいな」、「ワクワクするな」と感じるならば、私のいっていることに当てはまります。そのような人はあまりいないとは思いますが。

ただいくら好きでも嫌な気分になるときはあるんじゃないか?

例えば小説や脚本など、頭の中にストーリーを描くのが好きな人がいて、話の流れの中でどうしても自分の嫌な思い出に触れるような展開になったときに、嫌な気分になるんじゃないか・・・。

しかし、それはその人にとってどんなときでも嫌な気分になる思い出であって、頭の中にストーリーを描く行為とは関係ありません。

ついやってしまうことをやれる時間を増やすアプローチはいくつもあると思います

昨日のお話をもう少し補足してみます。

ついやってしまうことをやれる時間を増やすことが幸福につながるんじゃないか、ということを書きました。

例えばギターを弾くのが大好きな人がいたとしますよね。

ふと気がつくとギターを持って弾いている。それほど好きだと。しかも元々才能があったのでしょう、とても上手い。

バンドを組んで演奏していたら業界の人の目に留まって、ミュージシャンのレコーディングに呼ばれたりするようになる。

上手いと評判になったりすれば仕事もどんどん入って、本人も好きだから仕事以外でもギターを弾いている。そしてますます上手くなる。

ちょっと極端だと思いますが、ついやってしまうことをやれる時間が最も多い人の例だと思います。

もちろん現実は、絵が好きで気がつけば絵を描いている人でも、画家で食って行ける人はほとんどいないでしょうし、イラストレーターになれたとしても、商業デザインの世界ですからあまり乗り気のしない仕事ばかりかもしれません。

そうなったときに、自分の好きな絵を描くためにはどうすればいいかもう一度考えなおして、自分の好きな絵に近いものを後継者不足の伝統工芸の世界に発見するかもしれません。

ついやってしまうことをやれる時間を増やすことが幸福につながると思います

今日インターネットを見ていたら、自然ばかりで何もない外国を旅した人の話を見つけました。

その人によると都会にはいろいろなノイズがある。誰々が○○しているから自分も○○しなきゃというように、今の自分ではいけないという強迫観念にかられる。

しかしその国にいると自分は今のままでいい、ありのままでいいということに気づかせてくれる・・・というようなことが書かれていました。

最近自分の中で似たようなことを考えていたので、ああやっぱりそうだよな、と納得してしまいました。

先日余命を宣告されたと仮定することは、次々に新しいことに手を出す悪い癖をなおす口癖に使えそうだと書きましたが、そのあと続けて考えていたことなのです。

新しいことに手を出すまでもなく、今のまま、ありのままの自分でいても生産性があり、創造的であり、幸福を感じられるはずだと思うんですね。

よく、ついやってしまうこと、気がついたらやっていることは好きなことであるということを聞きますが、これなんてありのままの自分がやることそのものですよね。

余命宣告の仮定は手を広げすぎることを戒める口癖に使えるかもしれません

昨日は余命を宣告されたと仮定して遺書を書いたとして、自分の本当にやりたいことが分かるだろうかというお話をしました。

余命宣言というのは数ヶ月、長くても一年くらいのものでしょうか?そのくらいの期間で、例えば子供の頃の夢を叶えるために行動しても現実的には難しいでしょうから、本当にやりたいことが分かるというよりは、人生の目標のようなものを持っている人にとってそれを再確認するくらいのことには役に立つかもしれない、という内容でした。

しかし今日考えていたのは、余命宣告の仮定は、自分の悪い癖である手を広げすぎることへの戒めに使えるかもしれないということ。

手を広げすぎるというのは、例えば将来仕事に結びつきそうなことを思い付いたら熟慮せずにすぐに始めてみたり、これを身に着けたら仕事にプラスになるかもしれないと新しいジャンルの本を買ってしまったり、みたいなことです。

このような本なんて買って読んだところで未消化に終わる場合がほとんど。私と同じような人は多いと思います。

ここ数日もやることがいろいろあるのに、気が付いたらそのような本のAmazonのブックレビューを読みふけっていました。

そんななか余命宣告の仮定を思い出したわけです。

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