潜在意識

すきま読書の習慣化のために本に標語を添えた付箋を貼って潜在意識に訴えかけます

昨日はすきま時間を使った読書を習慣化したいということを書きました。

以前より考えているライフワークがあるのですが、ワーク=仕事として成り立たせるには知識が足りていないので、勉強していかなければならない。

そのための読書なのですが、仕事が忙しいときは読書のためのまとまった時間を取りにくい。

そのようなときに「すきま時間の読書」というのがいいらしい。

今日作業の合間にやってみたのですが、確かにいい感じです。

読書する時間を最初から短い時間と限定すれば、ほんの数分しか読まなくても、罪悪感はありません。

あとは習慣化するだけですね。

現実的に辛いことは続かないと思いますが、ライフワークとして考えていることなので、それに関連する書籍は読んでいて楽しいです。

そこで思い付いたのは、ラグビーワールドカップの2015年イングランド大会でラグビー日本代表を率いたエディー・ジョーンズ監督が、選手たちの潜在意識に働きかけるために作ったシンボルマーク。

メモなどにもこのシンボルマークを印刷して、選手たちの目に入るようにしたというのは有名な話です。

それを真似て、すきま時間に読む本に「すきま図書」という付箋を貼りました。「読めば楽しい」という標語も添えて。

ライフワークがあれば年をとっても暇をもてあますことはないと思うのですが

年をとると暇というのが大きなテーマだなと思います。

親を見ていたり、親の兄弟の近況を聞いたりすると、特にそれを感じます。

私がよくお伺いするASK アクティブシニア交流会さんは、毎月開催されるイベントの運営で忙しくされているので、暇な方はいらっしゃらないと思います。ASK会員さんの平均年齢は七十代、しかもみなさんお元気です。

これが私の親の世代のように八十代以降で、耳が遠くなったり足腰が悪くなったりして社会生活に支障をきたすようになると、積極的に外出する機会も減ります。

そして何日も家に居るようになると、やることは限定されるので、暇になることも増えて来るんだろうなと思います。

インターネットを使う世代が同じような状況になれば少しは違うのかもしれませんが、毎日が日曜日であることは変わりません。ネットを見るのも飽きてくると思います。

実はこの問題に対処することも、昨日書いたようにライフワークを考えていた目的の一つなのです。

一方で、今の私が考えているライフワークは、実際に自分が八十歳になって体のあちこちが悪くなったときには、捉え方が今とずいぶん違ってくるだろうなとも思います。

ただ、それは考えてもしょうがありません。

日頃から目や腰の老化を気にしているので耳がよく聞こえたとき安心したりします

今日サプリメントの錠剤を飲もうと手のひらに出していたら、その中の一粒がポロッと落ちました。

左後ろで「コツン」と音がしたので探してみると、その方向に落ちた一粒を発見。

考えてみたら音源の左右と奥行きが分かるのは、両耳でステレオで聞いているからですよね。

「ああ、まだ耳は正常に聞こえているな」と妙に安心しました。

八十代の親しい親戚に耳がほとんど聞こえない人がいるのですが、電話ができないなど、日常生活はかなり制限があるようです。

ただ、七十代でも耳が少し聞こえづらそうな方はいらっしゃるので、八十代ともなれば、このような方は結構いらっしゃるのかもしれません。

年をとれば誰でも耳は聞こえづらくなって行くのでしょう。

目だって同じですよね。

私の親も、若い頃から目がよくてメガネはいらなかったのですが、いつの頃からか老眼鏡をかけるようになりました。

新聞のような小さな文字を見るために、虫眼鏡はいつも手の届くところに置いています。

足腰もそうです。

八十代の親しい知人に、二本の杖を足代わりにして何とか歩いている人がいます。

この方も一人で外出できないなど、日常生活にかなり制限があるようです。

自分を否定することなく根源的な肯定感を持つことを意識したいと思います

昨日も書きましたが、岡野守也さんの「道元のコスモロジー―『正法眼蔵』の核心」(大法輪閣)を少しずつ読んでいます。

岡野さんの解説されている道元思想の核心、「世界・宇宙のすべてが一体であり、根源的に肯定されているという「全肯定・絶対肯定の思想」」はとても新鮮に感じます。

子供の頃から試験や部活などで競争させられてきました。

競争に勝つためには勉強や練習が必要ですし、怠けることは否定されますよね。

試験や部活だけでなく、ダメ出しを食らう場面はたくさんあります。

こういう経験を経て、自分を否定したり自分にダメ出ししたりすることが当たり前になって行くんじゃないでしょうか。

そんな中、「根源的に肯定されているという「全肯定・絶対肯定の思想」」」という言い回しは、とても魅力的に映ります。

とはいうものの、根源的に肯定するためにはどのようなことをすればいいかは今後の課題です。

本には次のように、根源的に肯定された際の例が記されています。

「確かに覚ってもやはり悲しい時は悲しい、落ち込む時は落ち込む。しかし、覚る前と覚ってからとでは、同じ落ち込みでも質が違うのである。

好きなことがつながることで幸福感が増すラッキーを忘れないでいたいです

いきなり例え話で恐縮ですが、1990年前後のある地方都市にサッカー好きの学生がいたと思ってください。

その頃サッカーはそれほど人気ではなかったため、サッカー雑誌を見ながら情報を集めていた。

彼はまたあるアニメが好きでキャラクターグッズを集めていた。・・・よくある話だと思います。そして続きを一気に。

そのうちJリーグが発足して急に盛り上がってきた。何年かして地元にプロのサッカーチームができた。そのチームに彼が憧れていた選手が入ってきた。たまたまその選手が彼と同じアニメが好きで仲良くなった。そうこうしているうちに彼は学校を卒業して就職した。彼がある会社に営業に行ったとき、その会社の社長が彼と同じ趣味だった。それが縁で、その社長は彼を贔屓にしてくれた。

好きだったものが幸運にもつながって行っただけで、彼が特に何かしたわけではありません。

それでもつながることによって、彼の幸福感はどんどん増して行ったと思います。

以上は極端な例ですが、自分のことに当てはめてみると、好きなものが地味なものであっても、何かにつながっていることはあるんじゃないでしょうか。

なぜこんなことを書いたかというと、私も最近そのようなものをいくつか見つけて幸運だと思ったからなんです。

年をとると純粋に自分の興味のあることに向き合うようになるのかもしれません

さきほど親戚の叔父さんから、「嫁さんの方の親戚が亡くなったので年賀状は出せない」という電話がありました。

このような電話や手紙は毎年数件あるのですが、今年は特に多い印象です。

親が高齢ですし、私も仕事の関係上シニアの方とお付き合いがあるので、増えて来るのも当然なんだろうなと思います。

そしてここ数年の間に、同級生や長年お付き合いのあった会社の社長さんが六十代で亡くなられたりしたので、自分もそういう年齢になったということなのでしょう。

ふと思ったのですが、この歳になって、易経や唯識仏教に興味を持つようになったことと関係しているのかもしれません。

京セラの創業者である稲盛和夫さんは、六十歳を超えてから仏門に入られたと聞きます。

このように、ある年齢を超えてから、儒教や仏教などに興味を持つ方は結構いるんじゃないかと思います。

私自身はもともと興味がないことはなかったと思うのですが、若い頃はそれよりもコンピューターやクルマなど、他のことに目が向いていたのだと思います。

考えてみると、若い頃は興味のあることといっても、世の中とのつながりを考えて選択しているんじゃないですかね。

個人としての宗教性を深めることの必要性は感じていました

今日、河合隼雄著「ユング心理学と仏教」(岩波現代文庫)の最後の章、「現代人と宗教」を読んでいました。

河合さんは「宗教の大切なひとつの役割」として次のように書かれています。

「それは人間に安心を与えてくれる。今生きている生が有限のものではなく、何らかの意味で永続性をもつ。言いかえると、生きている間だけではなく死後のことも保証されるわけである。」

もちろんそのことを否定する人がいることを承知の上で、民俗学者の柳田国男さんやユングがアメリカ先住民のプエブロ族を訪ねたときのエピソードを紹介されています。

私はプロテスタント系の学校に通っていたのですが、牧師さんの息子の同級生が「やっと(キリスト教の)○○のことを信じられるようになった」と話すのを聞いたとき、信仰がある人は強いだろうなと思ったものです。

河合さんは最後の方で次のように結論付けられています。

心理療法の事例から自分の物語を生み出す面白さにはまっているのかもしれません

以前より、河合隼雄さんの「〈心理療法〉コレクション」(岩波現代文庫)というシリーズを少しずつ読み進めています。

最初シリーズの一冊、「カウンセリングの実際」を読んでみたら、あまりの面白さに全六冊を揃えてしまいました。

何故面白いのかというと自分がカウンセリングを受けているような気分になるから、みたいなことをブログに書いた記憶があります。

今日シリーズの一冊、「心理療法序説」を読んていたら、その理由について書かれている箇所を見つけました。

「第11章 心理療法家の訓練」の「3 事例研究の意義」に、例えば「不登校という現象を研究しようとする場合」、調査によって一般的傾向が分かっても、「ある特定の生徒に向き合ったとき」あまり役に立たないとあります。

長いですが、以下抜粋です。

潜在意識は分からないと思っていたのですが夢を見るのならば話は違ってきます

昨日と今日、立て続けに夢を見ました。

一つは今まで想像すらしたことのない職種の会社に入社して、代表者にあいさつをしている夢、もう一つは昔あまり気の合わなかった職場の同僚と、ある場所に行くために行動を共にしている夢。どちらも焦っているところで目を覚ましました。

普段は夢を見ないので、ちょっと驚いてしまいました。

なので、以前河合隼雄さんの「明恵 夢を生きる」(講談社+α文庫)を読んでいたときも、こんなに夢を見る人がいるんだ、と違う世界のことのように感じた記憶があります。

最近河合さんの「<心理療法>コレクション」を読んでいることをブログに書いたり、たまたま昨日河合さんの「イメージの心理学」(青土社)の「夢分析」の章を読んだりしたせいなのかもしれません。

実際は毎晩夢を見ているのでしょうが、記憶しようという意識が働いたのでしょう。

私がいくら心理療法の本が面白いと思っても、正式に教育を受けたわけではないので、カウンセリングをすることはできません。

目の前のクライアントさんの発言や行動に対して、何を考えてどう対処すればいいか皆目見当もつかないでしょう。

祭りなどで普遍的無意識が反応するならば同じように反応するものを探してみます

今日は天神に打ち合わせに行ったので、ジュンク堂書店に寄って、最近ハマっているユングと河合隼雄さんの心理療法に関連する本を物色していました。

昨日「心理療法論」(みすず書房)を読んでいて、ユングが夢の解釈に必要な知識として、未開人の心理学・神話学・考古学・比較宗教史を知ることが必要と書いているのを見て、自分が象徴マニアだったことが分かったと書きました。

どうりで私は、若桑みどりさんのイコノロジー論や、小松和彦さんの憑き物や妖怪の研究などに惹かれるわけです。

さらに、象徴やイメージといったもので遊べるものは何でも好きなのかなと考えていたら、学生の頃から触っているパソコンなんていくらでも遊べるし、象徴やイメージを受け止める懐は底なしかもしれない、と思い至りました。

そんなことを考えながら、冒頭で書いたように本を物色していたら、河合隼雄さんの「イメージの心理学」(青土社)という本を発見。おぉ、考えていたことそのままのタイトルじゃないですか。

しかし、心理療法に関する読みかけの本が何冊かあるので、今日は帰りました。

本屋さんを出て、先程の本が気になったのでインターネットで書評を調べてみると、次のような内容に目が留まりました。