潜在意識

バイオリズムのように読みたくなる本のジャンルが変わっているようです

ここ数日、易経や華厳のような東洋の思想に関する本の話をしてきました。

数ヶ月前は、マニエリスムやロシア・アヴァンギャルドなど、美術に関する本ばかりを読んでいました。

そのときは、仏教を含む東洋の思想の本はほとんど読まなかった気がします。

自分の読みたくなる本のジャンルは、バイオリズムのように一定期間ごとに変わって行くようです。

私と同じような方も、いらっしゃるのではないかと思います。

一方で、一生ほとんど同じジャンルの本ばかり、という方はいらっしゃるのでしょうか。

その逆に、ジャンルなど全く関係なく、好きな本を手当たり次第に読んでいる人の方が多いのでしょうか。

私の場合は、好きなジャンルはいくつかあって、あるジャンルが飽きたら他のジャンルを、という読み方を繰り返しているようです。

自分の好きな本はいくつかのジャンルに分類できる、と分かったのは40代に入ってからで、バイオリズムのように一定期間ごとに読みたくなるジャンルが変わる、と分かったのは最近です。

そういう意味では、一生ほとんど同じジャンルを読むとか、ジャンルなど全く関係なく読むというように、自分の個性が分かるのは、ある程度年齢が行ってからなのでしょうね。

坐禅をすることもそうですが、心は外的条件や行為に左右されるのですね

アランの幸福論はお坊さんのお話を聞いているようだと書きました。

今日、集英社文庫の解説を読んでみて、改めてその想いを強くしました。

私は嫌なことや悩みがあれば、まず最初に本やインターネットの記事に、その解決方法を求めます。

世の中にはまだ自分の知らない考え方があって、それさえ知れば嫌なことや悩みは一瞬で消えてしまうんじゃないか、という期待があるんですね。

当然、そのような考え方にはほとんど出会うことはありません。

アランの幸福論には、そのような期待を抱かせる箇所はあまりありません。

あなたの抱えている不安や絶望といったものは、実は胃の痛みや寝不足から来るものかもしれないよ、というように、あくまで現実の生活に即した考え方や生き方を示してくれます。

昨日は、禅的な生活と似ているところがあるようだとお話しました。

禅のお坊さんの生活といえば、朝早くから規律正しく掃除や坐禅、食事などをされているように見えます。

そのような修行を通して、心や身体が健全さを取り戻して行く。

仏教の深層心理学といわれる唯識も、その教理をまとめたのは瑜伽行唯識学派という、瑜伽行=ヨガを実践していた学派であって、頭の中だけでできあがった理論ではないのですね。

アランの幸福論はお坊さんのお話を聞いているようなところもあります

昨日は、自分が興味を持っている複数のことが、あるキーワードでつながっているのを発見したとき、何とも愉快な気分になるということをお話しました。

そうなると、興味を持っていることがより楽しくなります。

このようなことも、幸福の一つに加えてもいいのかな、と思ったりします。

Q&Aサイトで、たまに「幸福とは」という質問がされているようですが、私もいくつかのぞいてみたところ、幸福も不幸もただの状態でしかない・・・、という回答に目が留まりました。

なるほどそうですよね。

状態であるということは、幸福でありたいと望むのであれば、そう意識するか行動するかしかない、ということなのだと思います。

昔、齋藤孝さんの「ヒルティの幸福論」(知的生きかた文庫)という本を読んだのですが、ヒルティは「どうすれば幸せを得ることができるか」という問いに対して、「人生の中で”一番長く使う時間”を幸せに過ごすこと」とひとまず回答しています。

その時間というのは、多くの人にとって「仕事」なのであって、「仕事をしている時間を幸福に感じるため」の方法を論じています。

興味を持っていることたちが、あるキーワードでつながっていると愉快な気分になります

鎌田茂雄・上山春平著「無限の世界観 華厳」(角川ソフィア文庫)には、荘子との類似性や、アビダルマや唯識などを網羅していること、易経解釈で有名な程伊川が華厳の思想を参考にしていることなど、とても興味深いことが書かれています。

それでは華厳とはどのようなものであるのか、ということになると、私にはまだよく理解できていません。

この本を何回か読んだり、他の解説書を読んだりして行くうちに、理解できるように思いますので、そのときはまた書きたいと思います。

実は数日前から易経のお話をしていて、いいたかったことは別にあります。

昨日も少し触れたのですが、自分の興味のあることたちは、お互いに無関係なように見えても、実はそれを取りまとめる思想があるものだな、ということなのです。

深層心理への興味から仏教の唯識に至ったときも、河合隼雄さんの著作から明恵上人を知ったときも、玄侑宗久さんの解説から荘子を手に取ったときも、陰陽師などの陰陽五行から易に興味を持ったときも、それぞれが華厳というキーワードでつながっているとは思っていませんでした。

もちろんどんなものでも、こじつけめいたことでつなげることもできるでしょうし、個人の興味のあることなんて似通った範囲でしかないのかもしれません。

「易経入門」をきっかけに六十四卦の解説書と華厳の本を買ってしまいました

易経は面白いと俄然興味がわいてきました。

以前、金谷治さんの「易の話」という本を読んだことを書きましたが、そのときは易経の六十四卦を学んで理解できるか、覚えることができるか、というとちょっと無理だなと思っていました。

ところが今回、氷見野良三さんの「易経入門」を読んでしまったわけです。

ソポクレスのギリシア悲劇七篇について、「作品の主題に沿って、易経の卦でいえば何に当たるかを臆断」するという、それは面白い試みです。

いても立ってもいられず、つい本田濟(わたる)著「易」朝日選書という、650ページ近くもある解説書を買ってしまいました。

全部覚えるなんてとても無理でしょうが、少しずつ学んで行きます。

そのうち易経のことを書く機会もあると思います。

つい買ってしまったつながりで書きますが、先の金谷治さんの「易の話」を読んでいるとき、宋の時代の程伊川という人が、華厳哲学に影響を受けたということが書かれていました。

私は角川ソフィア文庫の仏教の思想シリーズを三冊ほど持っています。

易経の解説がギリシア悲劇の内容に合致することを発見した興味深い本でした

易というのは、易者さんが筮竹(ぜいちく)という細長い棒を使って行う占いの一種です。

占うと、「-」という陽の卦と「--」という陰の卦が、六つ組み合わさった結果がでます。

「当たるも八卦、当たらぬも八卦」という言葉があるように、合計で六十四通りの組み合わせができます。

その六十四通りそれぞれの意味を説明したものが易経です。

氷見さんの「易経入門」は、その六十四卦の一つ「渙(かん)」の意味に、ソポクレスのギリシア悲劇「アンティゴネ」に登場する人物六人が、一つ一つの卦にぴったりと当てはまったという衝撃から生まれた本のようです。

本には「オイディプス王」や「エレクトラ」などの全七篇について解説されています。

確かに六十四卦から選ばれたものに、六人の性格や運命がぴったりと合致しているのは驚きです。

各篇の解説の最後には、東洋の賢者との対話と題して、登場人物が易経の言葉を持って語る東洋人と対話しています。

久々に大変面白い本で、すぐに読み終わってしまいました。

もともとこの著者のお仕事は金融関係で、各国の代表とのシビアな交渉の日々に、易経を読むことで心の平静を保っていた、というようなことが書かれています。

そうですか。いいことを聞いた。

時代によっても人の価値観は変わるもののようです

先日、昭和40年代の歌手やフォークグループの懐かしい動画を見ていて、ああ自分もこのような人を感動させるミュージシャンになりたい、と憧れていた頃を思い出しました。

私が小学生のときの、日本レコード大賞やNHK紅白歌合戦は年末の国民的行事でした。

日本レコード大賞を受賞した曲などは、それはもう日本人が後世まで語り継ぐ宝物のような存在でした。

そんなビッグヒットなんて、まさに私の持っていた価値観の「レガシー=遺すもの」、将来に対して遺すものですよね。

そのような幼い頃の記憶が、ミュージシャンになってヒット曲を出せば一生安泰、みたいなイメージを持つに至った原因かもしれません。

今はもう、国民的ヒット曲などは生まれない時代になってしまいました。

今の子供たちは現実的なので、メジャーデビューできたとしても、さらにヒット曲を出せたとしても、それだけで食って行けるなんてイメージは、持っていないだろうと思います。

さらに最近は、人生100年なんていわれるようになりました。

人生60年、70年の時代、日本レコード大賞が国民的行事だった頃の歌手と、今の歌手とでは、子供たちの憧れといっても、相当意味が違っていると思います。

子供の頃と体質が変わったのは親の影響という方がいらっしゃるかもしれません

自分は心配性だなと、たまに感じるときがありますが、社会生活は問題なく送れていますので、多くの人が持っている程度の心配性だと思っています。

子供の頃からそうだったので、持って生まれたものだと信じ切っていました。

しかし親元を離れて20年近く経って、再び間近で親を見るようになって、親の心配性は普通の範囲を超えているな、と発見したわけです。

親の場合は、心配性すぎて体調まで変わってしまう。

そういう姿を見ると、自分が子供の頃、アレルギー体質だったりよく腹痛を起こしていたのは、もしかすると、親と同じ極度の心配性を無意識に真似したために、体調を崩した結果だったのかもしれない、と気付いたのです。

その証拠に、親元を離れた大学生以降、あれほど悩まされていたアレルギー性鼻炎も、季節の変わり目に少し出るくらいですし、お腹が痛くなることもありません。

もちろん、成長すれば体質が変わることなんて、生理学上(という表現でいいのか分かりませんが)一般的なことなのかもしれません。

もしそうだとしても、親の影響をもろに受ける子供の頃に、親が極度の心配性でオロオロしたり騒いだりしていたら、子供も影響を受けて体調が変化するのは十分ありえることだと思います。

同じ資質を持っていれば子供は親のレベルを真似てしまうのだと思います

昨日、自分の子供の頃の心配性は親の影響だというお話をしました。

しかしそんなことをいったら、心配性なんて多くの人が当てはまるでしょうし、性格は親の遺伝が大きいので当たり前だ、と思われるでしょう。

私のいっていることは、それとは少し違うのです。

以前、子供の頃はアレルギー性鼻炎だったりよくお腹を痛くすることがあったが、成長するにしたがってその症状がほぼなくなった。子供の頃はかなり神経質だったので、その影響があるのかもしれない、という記事を書きました。

昨日は、母親が極度の心配性で、体調まで変わってしまうというお話をしましたが、これって自分の子供の頃と同じじゃないか、と気付いたのです。

自分では、成人してからも、生まれつきの心配性は親の遺伝だな、くらいに考えていました。

しかし福岡に帰ってきて、親と長い時間過ごすようになって、自分はここまで心配性じゃないな、ということを発見したんですね。

私の父親はクルマの洗車を全然しないのに、私はしょっちゅう洗車していた、ということも書きましたが、このように親と全く似ていないことは問題ないのです。

やっかいなのは、親と同じある性格を持っているのだけれど、その程度が、自分は常識の範囲内で、親は常識の範囲を超えていた場合です。

子供の頃の極度の心配性が親の影響だったことが分かりました

先日、母親が暑さで参っていると書きましたが、暑い日は血圧が上がらないとか、こういう蒸し暑い日は上がるとか、いっていることがコロコロ変わります。

昔からそうですが、かなりの心配性です。心配性すぎて体調まで変わってしまう。

糸井重里さんがイトイ新聞のコラムで、自分がやっていること、見ていることは、目に入りやすくなるというようなお話をされていました。

糸井さんのお話の内容とは少し違うのですが、なぜかそれを読んだとき、ああ、自分は母親の影響で極度の心配性だったんだと、改めて確信しました。

それまでも、漠然と親の遺伝かなくらいには考えていたのです。

物心付いたときから、間近で親の行動や発言を見聞きするので、ものごとに対する親の反応、イコール一般的な人間の反応だと思い込んでしまうのですね。

大学から東京に出ていて、40代になって再び親と長い時間を過ごすようになったので、そのことをより強く実感させられました。

本来自分の性格は、親の遺伝であったり、自分固有のものであったりすると思います。

親元を離れて生活を始めたとしても、自分の行動や反応に対して、これは明らかに親の遺伝だなとか、これは遺伝じゃなくて自分固有のものだな、というのは分かると思います。