外国語について

本が翻訳されるときは読む人の国の文化などに影響されます

欧米などキリスト教圏の国の人が書いた本で、もしキリスト教にまつわる箇所があったなら、キリスト教徒ではない日本人に、その国の人と同じ感覚は持てないと思います。

その反対に、日頃まったく宗教に関心のない日本人が、お正月に神社でおみくじを引いたときや、親戚の法事で仏壇に手を合わせているときに、私たちがどのような感覚でいるか、キリスト教圏の人たちにはちょっと想像もつかないんじゃないでしょうか。

なぜこんなことを思ったかというと、以前、玄侑宗久さんの「NHK 100分de名著ブックス 荘子」を読んでいて、仏教が中国に入ったときのお話が印象深かったからなんです。

中国語に最初に翻訳される際に、例えば「般若心教」の「空」は、老荘の「無」になぞらえて解釈されたそうです。

後年、インド人を父に持つ鳩摩羅什が、多くの経典の漢訳をやりなおすことになるのですが、その国に存在しない概念を説明するときに、既に存在するものに置き換えて翻訳するというのは、布教という使命を帯びていた翻訳者にとっては、しかたのないことかなと思います。

中国で老荘思想への関心が高まるにつれて、仏教も広まって行ったとありますから、最初の漢訳も、普及という意味では、その役目を果たしたといえるのではないでしょうか。

日本語の思考と外国語の思考

以前、「ここたまサポートひろば」をApple Developerに提出して審査待ちをしているとき、リジェクト(審査に落ちること)がかかりました。

原因は、アプリのプログラム部分ではなく、アプリ内容の説明に不備があったことが判明したのですが、ある企業様への導入も決まっていたものですから、リジェクトがかかったときは焦りました。

最初にAppleの日本語サポートに尋ねてみると、審査しているのは違う部署なので、そちらに直接聞いて欲しいということでした。当然英語で・・・。

ヒーヒーいいながら英文のメールでやり取りして、やっと原因がわかったのですが、こちらの伝えたいことが正確に伝わらなかったり、先方の英文フレーズの意味が分からなかったりで、何度もやり取りする羽目になりました。

同じことを説明するにしても、英語と日本語では言い回しが異なってくるんですよね。

このようなやり取りもあると予想して、数年前から英文に触れるようになってから、そのことを実感しています。

触れるといっても一日5分、10分程度ですので、私のつたない英語力では、数語ごとに辞書を引き引き、ほんの数行進む程度。

10年後に、今よりまともに読めさえすればいいくらいに考えています。