本が翻訳されるときは読む人の国の文化などに影響されます

欧米などキリスト教圏の国の人が書いた本で、もしキリスト教にまつわる箇所があったなら、キリスト教徒ではない日本人に、その国の人と同じ感覚は持てないと思います。

その反対に、日頃まったく宗教に関心のない日本人が、お正月に神社でおみくじを引いたときや、親戚の法事で仏壇に手を合わせているときに、私たちがどのような感覚でいるか、キリスト教圏の人たちにはちょっと想像もつかないんじゃないでしょうか。

なぜこんなことを思ったかというと、以前、玄侑宗久さんの「NHK 100分de名著ブックス 荘子」を読んでいて、仏教が中国に入ったときのお話が印象深かったからなんです。

中国語に最初に翻訳される際に、例えば「般若心教」の「空」は、老荘の「無」になぞらえて解釈されたそうです。

後年、インド人を父に持つ鳩摩羅什が、多くの経典の漢訳をやりなおすことになるのですが、その国に存在しない概念を説明するときに、既に存在するものに置き換えて翻訳するというのは、布教という使命を帯びていた翻訳者にとっては、しかたのないことかなと思います。

中国で老荘思想への関心が高まるにつれて、仏教も広まって行ったとありますから、最初の漢訳も、普及という意味では、その役目を果たしたといえるのではないでしょうか。

フランシスコ・ザビエルが日本に上陸したとき、キリスト教の「神」を、最初に「大日如来」の「大日」と訳したそうですね。

しばらくして、その訳がふさわしくないと気付いたザビエルは「デウス」に変えたそうです。

これらのお話は特殊な例かもしれませんが、翻訳という作業は、多かれ少なかれこのような問題をはらんでいると思います。

ですので、昨日書いたように、日本語に訳される前の言葉をそのまま理解できたら、面白いだろうなと思ったのですね。