唯識仏教の本は読んでみるとけっこう面白いと思います、その一

今日は竹村牧男著「「成唯識論」を読む」(春秋社)を読んでいました。

今月のブログは何度かこの書き出しで始まっていますが、すきま読書をしている上に五百ページ以上ある本なので、こうなってしまいます。

唯識は術語が多いから分かりにくい、というようなことをどこかで読んだ記憶があります。

確かにそうなのですが、分かってしまうと面白い。

今日読んだのはそのことがよく分かる箇所だったので、ちょっと紹介してみます。

まず「唯識の十二縁起の解釈―能引支」という箇所から。十二縁起説とは以下。

「釈尊は覚りを完成したときに、一週間、解脱の楽しみを味わった後に観察に入り、十二縁起という、人間が苦しまざるをえない仕組みを解明したといわれています。」

具体的には「無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死」という十二個です。

以下、能引支の説明。

「唯識では、識・名色・六処・触・受の五支を、実に種子として考えます。未来の業の結果に対する名言種子、直接的な因となるものと見るのです。無明・行は、その識等の五果の種子を引くので、ですから能引支だというのです。つまり業は、来世にどの身体と環境世界を引き出して現行させるか、に関わるわけです。」

術語が多いですね。

「種子」とは、心の奥底にある深層領域「阿頼耶識(あらやしき)」に関連する言葉です。

以下、多川俊映著「唯識とはなにか」(角川ソフィア文庫)から引用してみます。

「阿頼耶とは耳慣れないことばですが、サンスクリット語のアーラヤの音写です。「蔵」や「倉庫」の意味ですので、「蔵識(ぞうしき)」と意訳されます。問題は、その阿頼耶識が何を所蔵しているのかということですが、端的にいえば、他ならぬ自分の過去のあらゆる行動情報です。その行動情報のことを、唯識仏教では「種子(しゅうじ)」といいます。 (中略) 阿頼耶識中に所蔵されている種子が、条件が整えば、現行する―。つまり、過去のある行動情報から現実の行動が生起するのだという理解です。」

「現行」は「げんぎょう」と読みます。

それでもちんぷんかんぷんになりそうでビビりつつ、長くなるので続きは明日に。