「好きなことが継続できること」だと分かるのがおじさんなんだと思います

自分からやりたいと思ったプラモデル作りでさえ、最後までやり遂げることができない。

子供心にも結構落ち込みました。

そんなある日、同級生の家に遊びに行くと、作りかけた状態で放置されたプラモデルを発見する。

バイクのプラモデル、確かホンダのナナハンだったように記憶しています。

それを見たとき、ああ、もしかしたら、プラモデルを最後まで作ることのできる子供は、あまりいないんじゃないかと思ったものです。

しかし、あれだけワクワクしていたのに、一度も完成させることができなかった体験は、継続ということに自信をなくした、大きな原因の一つだと思います。

いつの間にか、自分に飽きっぽい性格だというレッテルを貼ってしまいました。

一つのことに情熱を燃やして、大きなことを成し遂げるアスリートやアーティストを横目に見ながら、歳を取って行くわけですね。

それから30代で独立したり、ハードワークを続けたり、体を壊して療養したりを経て、40歳くらいのときに自分を見つめなおすわけです。

以前にも書きましたが、学生のとき退屈で途中で投げ出した夏目漱石の「吾輩は猫である」が、妙に面白くて最後まで読めてしまう。

そういえば仕事にしても、コンピューター関連を30年近くやっているじゃないか。

飽きっぽくて色んなことに手を出しはするけれど、最後までやれること、長く継続していることもあるじゃないか。

「気付くのが遅すぎる」と突っ込まれそうですが、少なくとも私の場合は、30代は目の前のことに必死で、気付くことはできませんでした。

それに同じジャンルの仕事を十数年では、長く継続しているとはいえないようにも思いますし。

先日、おじさんになったら継続できるようになったと書きましたが、継続できることは何かが分かるようになった、ということなんだと思います。