もちろん人間にはいろいろなタイプがあり、子供を見ていても、社交的であったり、人見知りであったり、外で走り回るのが好きだったり、室内で静かに遊ぶのを好んだり、妙に大人びていたり、無邪気で子供っぽかったりと、いろいろです。
ただそんな中でも本人にとっては、学校生活に特に違和感を感じていない子もいれば、どうも居心地が悪い、居場所がないと感じる子もいると思います。
社会人になって同級生と昔話をしていたとき、学校が楽しくてたまらなかった、と聞いてビックリしたことがあります。
確かに彼はクラスの中心グループにいました。
少なくとも私は学校が楽しいと感じたことはありませんし、どちらかといえば嫌でした。
しかしそうはいっても、昨日お話したように、どのように行動すればいいか分からないので人を観察していた、という行為は、学校が嫌だということに罪悪感を感じたからやっていたのだと思います。
学校が嫌だと思うのはまともではない、つまりマイノリティだからであって、まともになるためには、他の生徒たちと同じような行動をしなければ、という理屈ですね。
ルソーのエミールを読んでいて、なぜか安堵感を覚えたのが不思議だったのですが、それはルソーの自由思想のような高尚な知への興味ではなくて、子供の自然な育て方の方法を知ることの安堵感だったのではないかと思っています。