深層心理

その時代の社会情勢によってクリスマスの気分も変わるんですね

週刊誌にいつも「AIがあなたの仕事を奪う!」なんて見出しが躍っていたら、毎日浮かれていていいんだろうか、という不安も芽生えてくるでしょう。

1ヶ月も2ヶ月も前から、クリスマスの飾り付けをする気分にはならないということなのかもしれません。

その代わり、昨日お話したハロウィンなんかは年々盛り上がり具合が大きくなっているような気がします。渋谷なんて凄いみたいですね。

そういえば、先日終わったプロ野球のクライマックスシリーズは大盛り上がりでした。

予選も含め、サッカーのワールドカップも多くの人が熱狂しています。

先が見えない時代の不安の裏返しで、短い期間に、瞬間湯沸かし器のように発散したい気分になりたいのかもしれません。

鎌倉時代、蒙古襲来などの社会不安におびえる民衆に熱狂的に受け入れられた一遍上人の踊り念仏、江戸時代、黒船来航や飢饉などの同様の不安から発生した「ええじゃないか」。

不安な時代というのは、盆踊りのような、年に数えるほどしかないイベントではハレの日が足りないので、民衆自らイベントを作り出したようなところがあるのかもしれません。

イベントが増えた分クリスマスの盛り上がりも分散されたのかもしれません

先日ふと11月に入っていたことに気付き、もう今年もあと2ヶ月もないと、改めて月日の経つのが早いことに驚かされました。

そんなことを思っていたせいか、今日打ち合わせに向かう途中に天神地下街を歩いていたら、普通の光景であることにちょっと違和感を感じました。

来月クリスマスなのに、毎年こんなに地味だったっけ?と思ったんですね。

バブルがはじけて21世紀に入っても、相変わらずクリスマスのずっと前から、街のあちこちでイルミネーションを見かけたように記憶しています。

私の記憶違いなのか、それともやはり地味になってきているのか・・・。

確かにここ数年、10月31日のハロウィンが大盛況で、まだそれが終わったばかりということもあるのでしょう。

恵方巻きも当たり前のようにイベント化したのは、ここ20年くらいですかね。

私が子供の頃は盆と正月くらいしか大きなイベントはなかったような気がしますが、今ではたくさんのイベントが人々の生活に入り込んで、クリスマスばかりにエネルギーを割いてはいられない、ということなのかもしれません。

それにグローバル化とか高齢化社会とか、もはや生き方のお手本となるものがない時代です。

一つの感情でも幸福感が高まるものとそうでないものがありそうです

昨日はネガティブな感情であっても、自分にとって価値を感じることのできる感情であれば、幸福感が高まるらしいというお話をしました。

ふと考えたのですが、怒りや悲しみや不安のようなネガティブな感情といっても、その一つ一つの感情にはいくつかの種類があるんじゃないでしょうか。

怒りという感情一つとってみても、自分が価値や意義を見出せる怒りと、見出せない怒りがあるということですね。

例えば、義憤のような怒りであれば幸福感や満足感は高まるが、外出先で持ってきたはずのものを忘れてしまって自分に腹が立つ、というような怒りにはそのような効果はない、というような。

私は少し不安症でもあるので、物心ついたときから不安と付き合ってきました。

私のような人と、元々それほど不安というものを感じない人を比べたら、不安というものに対する定義も違うでしょうし、不安症の人は、変な言い方ですが、不安のバラエティも豊かだと思います。

その豊かなバラエティの中から、自分が価値や意義を見出せる不安や、そうでない不安など、いろいろな種類に分類することができそうです。

ネガティブな感情も自分にとって価値があれば幸福感が高まるらしいです

先日ネガティブな感情に対する思い込みを覆す、ちょっと面白い記事を見つけました。

Journal of Experimental Psychologyに発表され、その関係者が語っているところによると、怒りや恐れのような不快な感情であっても、自分にとって価値や意義を感じられる感情であれば、それを受け入れることで幸福感が高まる、というようなことらしいです。

確かに今まで生きてきて、つい怒ってしまって友達と疎遠になったり、会社の同僚と気まずくなったりしたことがあるため、経験上、怒りは抑えなければならないと信じ込んでいました。

その一方で、怒りのような、人間にとって自然な感情をいつも抑えつけるのは、心にはよくないのは分かります。

悲しいときや落ち込んだときは、同じように悲しい音楽を聴くことで、それが心の慰めになって気持ちがやわらぐとはよくいわれることです。

もちろんネガティブな感情が度を越して、精神的な病に陥ってしまうのは本末転倒ではあります。

しかし先日、あるニュースを見ていて、「自分があんなことをされたら」と想像してムカッときたとき、この記事のことを思い出して「あれ、今怒ったことで少しスカッとしているかもしれない」と思ってしまいました。

人の頭の中をのぞいてみたいという気持ちはあります

自分以外の人が私の頭の中をのぞいたら、その人が経験したこともない情景が広がっていて、びっくりするんじゃないかとお話しました。

その逆に、私は他の人の頭の中はどうなっているんだろう、と想像することがあります。

テレビでたまに、第一線で活躍されている編曲家やスタジオミュージシャンの方が、即興で演奏されるのを見ることがあります。

あれほど高いレベルで演奏できるということは、日頃からとても真摯に音楽に向き合われているのだと思います。

そのようなときに、彼らの日常はどのような頭の中なんだろう、とシンプルに興味を持ちます。

彼らの頭の中を一日体験できるとなると、自分とはまったく違っていて、愕然とするんじゃないかと思います。

これはプロの漫画家にしろ、将棋の名人にしろ、プロ野球の選手にしろ、同じでしょう。

そのようなプロフェッショナルの方ばかりではなくて、普通の人に対しても、のぞいてみたい気持ちはあります。

例えば自分の肉親など、身近な人たちとたまに言い争ったあとに、「まったくあの人の頭の中はどうなっているんだろう」と考えるときなどがそうです。

自分の心の状態を覚めた目で見ていることがあります

先日もHSP(Highly Sensitive Person)のことを書きましたが、過敏性や不安症などは、重症であれば日常生活で何気なく繰り返される行為でもストレスを感じています。

例えば強迫性障害であれば、手を洗うのがやめられないとか、ドアの鍵をかけたか何度も確認するとか。

それら一つ一つがストレスで、慣れることがないんですね。

自分もそのような傾向を持っていますので、このような気質を「持っていない」人たちが、日頃どのような場面でストレスを感じているのか、あまり意識したことがありませんでした。

糸井さんの文章を読んでそのことに気付いたわけです。

強迫性障害も、重い症状の方になると、何時間も同じ行為に囚われるようなお話を聞きます。

私の場合はそこまでひどくはありません。

いったん仕事を始めたら仕事に集中しますし、面白いテレビを見ているときや好きな音楽を聴いているときなど、時間を忘れることもあります。

このように自分が集中しているときは、向いていることや、好きなことをしているときなのだと思います。

少数派ではない人の心を知る機会がなかったことに気付きました

昨日は糸井重里さんがほぼ日刊イトイ新聞で、「「ストレスの利用法」というようなもの」について書かれていた文章の一部をご紹介しました。

糸井さんといえば、私が学生の頃から、コピーライターとして第一線で活躍されていましたし、テレビの司会などでもよくお見かけしていました。

ほぼ日刊イトイ新聞に活動の拠点を移されてからも、積極的に活動されていましたので、私が存じ上げないだけかもしれないのですが、長い間健康を保たれているように思いますし、何より人とのコミュニケーション能力の高さは、ただただ次元の違いを感じるばかりです。

そのような社会の仕組み作りの一翼を担われている方が、ストレスについて発言されていたので、とても参考になりました。

当たり前のことなんでしょうが、ストレスをちゃんと感じていらっしゃるんですよね。

このような方の感情に触れる機会があまりないので、とても印象に残りました。

昨日も書きましたが、私は少数派と思われるような人たちに関する本や記事を目にすると、興味を持つことが多いですし、自分の中にその人たちの心を理解しようという気持ちを感じます。

その一方で、多数派と思われるような人たちの心を知る機会は、そういえばなかったなと気付きました。

少数派の人たちの心を理解しようという気持ちはあります

ニューロダイバーシティ=脳の多様性という概念を知ったところから、結構長い記事になってしまいました。

私は子供の頃から、社会に対して生きづらさを感じているところがあったので、このような概念が紹介されている記事を見かけると、つい夢中になるんですね。

自分の場合は、パニック障害からウツの症状に陥ってしばらくは、社会生活ができない期間もあったのですが、それが長期化しなかったことはありがたかったと思います。

しかしそのような資質を持っていることは今でも自覚していますし、先の記事のようなものを見かけると興味を持つ自分に気付くので、少数派といわれる人たちの心は、分かるとはとてもいえませんが、理解しようという気持ちはあります。

一方で、多数派といわれる人たちの気持ちですが、そちらの方はあまり理解できるとは思えません。

もちろん「少数派」と「多数派」で二つにくくるのは、乱暴すぎるのは分かっています。

少なくとも人生のレールと呼ばれる場所、学生ならば学校で、社会人ならば職場で、それぞれ何か大きな違和感や障害(人とコミュニケーションが取れないなど)を感じて、長期間家に引きこもるとか、そのレールを外れた世界で生活するような人は、多数派ではないように思います。

やっている仕事から考えてロールモデルが見つからないのはいいことかもしれません

昨日からなぜこんなことを書いているのかといえば、昨日も少し触れた深層心理とパソコンの話と関係があります。

深層心理の方は、大乗仏教の深層心理学といわれる唯識にはまりましたし、先日河合隼雄さんの対談のお話を書いて以来、易経の解説書をとても面白く読んでいます。

パソコンの方は、これも先日も書きましたが、AIの技術であるディープラーニングがとても面白いと思っています。

両者は深いところで繋がっているのかもしれませんが、世間的なジャンル分けからすれば180度ほども違うものです。

それを考えていたら、以前より気にかけていたロールモデルというのは見つからないのも当然かな、と思ったんですね。

私は小さなソフト開発会社を経営していますので、本来ならば経営者のロールモデルを探すのだと思いますが、メディアに載るような経営者の方で、私と同じ嗜好の方はちょっといそうにありません。

さらに考えてみれば、小さな会社は他社さんとの違いを意識しながら仕事をしているわけで、そう意識するればするほど、自分と似たお手本となる人(ロールモデル)を探すことから離れて行きそうです。

昔からロールモデルというものを探すのが苦手でした

ロールモデルとは、「あんな人になりたい」という生き方や考え方のお手本となるような人物のようです。

もちろんその有用性は分かります。

仕事にしろプライベートにしろ、毎日は選択の連続です。

生きにくくストレスが多い生活をしているとしたら、やはり今まで何気なく行っていた日々の選択を、見なおしてみるのがいいのだと思います。

しかし見なおすといっても、何を基準にどこから手を付けていいか分からないという状態ならば、ロールモデルとなる人物を設定することができれば効率はいいでしょう。

必然的にその人物は、自分と考え方や行動が似ている人(同じ匂いのする人?)ということになるんじゃないでしょうか。自分でそう感じればそれでいいと思います。

もちろん違う人間ですから、その人と自分はいろいろな点で違うと気付くでしょうが、その差異を認識できるということが自分を見つめるきっかけになるわけで、それがロールモデルを設定するメリットなんじゃないかと思います。

その人を真似ながらも、その人との差異によって、どのような結果の違いが生じるかを体験することで、自分が理想とする生き方に近づけるのではないかと思います。