深層心理

個人的に唯識仏教のすごいなぁと思うところ

数日前に、私が持っている唯識の本の心所有法について書かれている箇所を読み返していることを書きました。

心所有法とは心の働き、心の作用の面を細かく分析したものです。

唯識は大乗仏教の深層心理学ともいわれていて、私はその部分への興味から唯識に入って行ったのですが、この心所有法がまさに私の興味と合致するんですね。

しかし合致するとはいっても、心所は六つのグループ、五十一種類に分類されているので、全部に興味があるというわけでもありません。

今回その分類の中でも特に興味をひかれるところが分かったので、読み返してよかったと思っています。

一つは六つのグループの最初、「遍行(へんぎょう)」。

「遍(あまね)く行われるもの」という意味で、心が動くときに必ず働くといわれているものです。

多川俊映著「唯識とはなにか」(角川ソフィア文庫)には次のような説明があります。

唯識の善の心所を思い出すたびに自分の行為を反省してしまいます

数週間前から、私が持っている唯識の本の心所有法について書かれている箇所を読み返しています。

心所有法とは心の働き、心の作用の面を細かく分析したもの。六つのグループ、五十一種類に分類されています。

私が唯識仏教の中で特に惹かれている部分で、よくもまあここまで分析したなぁと驚かされます。

1500年前のお坊さんたちが瑜伽行(ヨガのことですね。坐禅のようなものではないかといわれています)をしながら、「ああでもない、こうでもない」と探求して行ったんだと思います。

この心所有法を知るまでは、心理学の本を何冊読んでも心というのはよく分からないものだと思っていました。

なのでこれを知ったときは、大乗仏教の範囲内ではありますが、ここまで心のことが体系化されていたんだなと感動しました。

先日読んだのは六つのグループのうちの善の心所。「信」から「不害」まで十一種類あります。

いつも感心するのは最後の二つ。行捨(ぎょうしゃ)と不害。

行捨は好き嫌いを離れ、平等にして偏らない。平静な気持ちを保つこと。不害は相手を傷つけない、相手へのおもいを忘れないこと。

唯識は深層心理を通り越して生命の根源まで説明しているんじゃないかと思います

久しぶりに服部正明/上山春平共著「仏教の思想 4 認識と超越<唯識>」(角川文庫ソフィア文庫)を手に取って、湯浅泰雄さんの書かれた解説を読んでいたとき、次のような箇所に目が留まりました。

「アーラヤ識は個体の生死をこえて存続する超個体的な深層心理領域であるから、心理学にひきつけてみれば、ユングのいう集合的無意識や近年のトランスパーソナル(超個的)心理学のような考え方に通じるところがある。 (中略) ただし、アーラヤ識の考え方は、もっと複雑で広い内容をもっている。それは、個体の生死をこえて活動をつづけていると共に、人間ばかりでなく、すべての生命を輪廻転生させている宇宙的な生命活動の根底とも言うべきものである。表層的人間存在の中心にある「心王」は、個体の生から死に至る時間的持続に依存しているのに対して、アーラヤ識に支えられた生は、永遠にくり返す悠久な時間と活ける大自然のリズムの中にある生としてとらえられている。」

そうなんです。

河合隼雄さんの本を通してユングにどこか共感するところを感じていたので、唯識仏教までたどり着いたのだと思いますが、唯識の無意識はずいぶん深いところまで行くなと感じていました。

一方で易経に触れたのは、陰陽五行を使った占術に興味があったので、それが直接のきっかけだったと思います。

車検証を一時抹消登録しても楽しんで整備を続けています

今日は久しぶりに晴れて風もなく、時間の余裕もあったので、バイクに油をさしたりして点検していました。

もう三年ほど前になりますが、自転車でコケて顔面骨折して入院したあとに、バイクに乗るのが怖くなって車検証を返納しました。

当時は忙しくてバイクに乗るどころじゃなかったですし、入院中同じ病室でバイク事故にあった方々のあまりにひどい怪我にショックを受けたからです。

それ以来、いつか再登録して再び乗るときのために、定期的にサビなどのチェックをしているんですね。

売ることはあまり考えませんでした。やっぱりバイクが好きだったからです。

とはいうものの、いつか乗るときのために自動車検査証返納証明書をもらう手続きをする人なんて、あまり聞いたことがありません。

それに、あとになって「やっぱりあのとき売っておけばよかった」と後悔するんじゃないか、という不安もよぎりました。

でも自分のバイクも、バイクに乗ることも好きだし、後悔するかどうか試してみるのもいいかなと考えたんですね。

その結果、三年経った今でも全く後悔していません。

たまにバイク雑誌に載っている自分のと同じ車種を見てニンマリしています。

○○の日だから○○しなければというルールに距離を置きたい時代の気分があるのでしょうか

先程思い出したのですが、今日は3月14、ホワイトデーだったんですね。

Yahoo! JapanにもMSN Japanにもそれらしい記事がなかったので気が付きませんでした。

夕食を買い出しに行ったスーパーや、買い物に寄ったディスカウントストアでも気付かなかったので、特に販売コーナーを設けてはいないのでしょう。

ホワイトデーの名前は随分昔からあったと思うのですが、定着しているとはいえないかもしれません。

そういえば恵方巻きも、一時期は盛り上がっていたように記憶しているのですが、去年辺りから売れ残ったものが大量廃棄されている問題の方がニュースに取り上げられている印象があります。

その一方でハロウィンはここ数年、すごく盛り上がっているような気がします。

私にはトレンドを分析する力はありませんので、どういう理由でそうなっているのかは分かりませんが、人為的に流行を作るのは至難の業なんでしょうね。

そもそも私が子供の頃は、プレゼントをしたりお祝いをしたりする日って、盆と正月以外は、父の日や母の日など数えるほどしかありませんでした。

クリスマスでさえケーキを買うぐらいで、今のように街中にきらびやかな装飾が施されることもなかったように記憶しています。

髪が伸びるまで切らないのは子供の頃からヒッピー文化に興味があるせいかもしれません

髪が伸びたのでそろそろ散髪に行こうかと思って、ふと気付いたことがありました。

私は髪の毛で耳が完全に隠れてしばらくしてから散髪に行くことが多いです。それは学生の頃からあまり変わりません。

親はいつも軍人さんのように短く刈り上げていて、若い頃の写真を見ても同じですので、親の遺伝ではありません。

親戚にも私のように伸びっぱなしで平気な人はいませんし。

単に無精なんだろうと思ったのですが、学校や会社では遅刻も欠席もほとんどしたことがありませんし、締め切りなどの約束事も守っていますので(当たり前か・・・)、性格が無精というわけでもないように思います。

おととい洋楽の話を書いたのを思い出して、もしかすると中学に入った頃から読んでいたミュージック・ライフなどの洋楽雑誌の影響で伸ばすようになったのかな、何てことも考えました。

ロックミュージシャンはみんな髪が長いですからね。

親戚にはマイケル・ジャクソンが好きとか、サイモンとガーファンクルの昔の曲が好きとかいう親戚はちらほらいましたが、ディープな洋楽好きやバンドを組んでいた親戚はいません。

とはいえ洋楽好きがみんな髪が長いなんてことはありません。長い知人も結構いますが。

みんなと同じことにお金を使えば後悔や罪悪感を感じなくて済むのかもしれません

昨日はある商品を買ったあと、その商品が他のお店で安く売られているのを見つけても、よく使うモノであれば損をした気にはならないということを書きました。

同じことは、たくさん投資したのに今使っていないモノについても、使い倒したという感覚があれば損をした気にはならないように思います。

昔MD(ミニディスク)をいう規格がありましたが、私もそれを持っていて、片っ端からレンタルCDなどを借りてそれに録音していました。

今でもそのときのMDディスクが百枚単位で残っています。

MDのポータブルプレイヤーはとっくに壊れてしまいましたし、ミニコンポで聴くことはできますが、音楽を聴くのは外出時がほとんどなので聴く機会がありません。

しかしMDは聴き倒したので元を取ったような感覚があります。

LPレコードもそうですね。学生の頃から一番お金を使ったと思いますが、世の中がCDに移行する時期に売ってしまいました。

こちらもMDと同じ感覚で、損をしたという気持ちはありません。

学生の頃といえば、学習参考書や辞書については買って損をしたという気持ちはあります。

全然成績が上がらないので、「これがいい」という話を聞けばその参考書や辞書を買っていました。

同じ商品を割高に買ったとしても使い倒せば損をした気にはなりません

今日ドラッグストアに寄ったので、最近飲み始めたトクホのドリンクセットを買っておこうと思って価格を見たら、近くのディスカウントストアより400円近く高かったので買うのをやめました。

千円以下で買える商品がこれだけ違うと、さすがに驚いてしまいます。

気になったので、帰る途中にある別のディスカウントストアに寄ってみると、いつも行くディスカウントストアより100円安い。

ラッキーと思って買って帰りました。

こんなことを書いたのは、実は昨日買った小型PCが、買ってしばらくして別のお店で4千円安く売られていたのを見つけたからです。

3万円前後の商品なので、ずいぶん値段が違う感じがします。

ただ、私は昔からパソコンやタブレットを買うと使い倒しているので、もし割高に買ったとしても元が取れると思うと残念な感覚はありません。

逆にいくら安く手に入れたとしても、使わないで置物になってしまうモノはもったいないと思います。

ずいぶん昔、衝動的に一眼レフカメラをディスカウントストアで安く手に入れたのですが、使ったのは最初のうちだけで、ほとんど使わずにしまってあります。

電子ピアノもそうです。

「やりたいことをやりきった」人というのは死ぬときどう思うのでしょうか

昨日は楠木新著「定年後」(中公新書)に書かれている、京都大学カ―ル・ベッカー教授の講演内容のエピソードを読んで驚いたというお話をしました。

功なり名を遂げた大半の人が、「自分の誇れるものは何か」という臨終前のインタビューで、幼い頃の思い出を語るというもの。

私はそれまで「死ぬときに後悔する○○のこと」というようなタイトルの本やネットのコラムで、「行きたい場所に行かなかったこと」とか「やりたいことをやらなかったこと」というような回答をする人が多いという話に、信憑性を感じていたからです。

インタビューを受けたのは、自他共に認める「功なり名を遂げた」という人が前提でしょうし、少なくとも「やりたいことをやらなくて」後悔している人ならば、「死ぬときに後悔する○○のこと」のような回答をしているんじゃないかと思います。

インタビューを受けた人の中には、完璧に「やりたいことをやりきった」人はいないかもしれませんが、それに近い人はいたんじゃないか。それにも関わらず大半が幼い頃の思い出を語るとは・・・。

もしかするとインタビューを受けた人たちの中に「やりたいこと」で功を成した人はいなかったのかもしれませんし、そもそも人間は「やりたいことをやりきった」なんて感情を臨終のときまで持ち続けることはできないのかもしれません。

「死ぬときに後悔する○○のこと」がないとしたら何を思うのか考えてしまいました

今日インターネットを見ていたら、ダイヤモンド・オンラインでちょっと驚くコラムを見つけました。

話題になった本「定年後」(中公新書)の著者、楠木新さんのコラムで、驚いたのはこの本から抜粋されている次の部分。

京都大学で日本人の往生感を研究しているカ―ル・ベッカー教授の講演を聞いたことがある。功なり名を遂げた人に臨終の前に「自分の誇れるものは何か」とインタビュ―すると、仕事や会社のことを話す人はいないという。大半が「小学校の頃、掃除当番をきっちりやった」など幼い頃の思い出を語るらしい。

以前このブログで、「死ぬときに後悔する○○のこと」というような本について書いたことがあります。

ネット上にも同じようなコラムを見かけますが、「行きたい場所に行かなかったこと」とか「やりたいことをやらなかったこと」など、似たような項目が挙げられていて、ああやっぱりほとんどの人が同じようなことを後悔するのか、とても考えさせられました。

逆にいえばそれらを叶えることができた人たちもいるのでしょうから、そのような人たちは、少なくとも死ぬときにこのような後悔はしないわけですね。