「やりたいことをやりきった」人というのは死ぬときどう思うのでしょうか

昨日は楠木新著「定年後」(中公新書)に書かれている、京都大学カ―ル・ベッカー教授の講演内容のエピソードを読んで驚いたというお話をしました。

功なり名を遂げた大半の人が、「自分の誇れるものは何か」という臨終前のインタビューで、幼い頃の思い出を語るというもの。

私はそれまで「死ぬときに後悔する○○のこと」というようなタイトルの本やネットのコラムで、「行きたい場所に行かなかったこと」とか「やりたいことをやらなかったこと」というような回答をする人が多いという話に、信憑性を感じていたからです。

インタビューを受けたのは、自他共に認める「功なり名を遂げた」という人が前提でしょうし、少なくとも「やりたいことをやらなくて」後悔している人ならば、「死ぬときに後悔する○○のこと」のような回答をしているんじゃないかと思います。

インタビューを受けた人の中には、完璧に「やりたいことをやりきった」人はいないかもしれませんが、それに近い人はいたんじゃないか。それにも関わらず大半が幼い頃の思い出を語るとは・・・。

もしかするとインタビューを受けた人たちの中に「やりたいこと」で功を成した人はいなかったのかもしれませんし、そもそも人間は「やりたいことをやりきった」なんて感情を臨終のときまで持ち続けることはできないのかもしれません。

ただ私はこのエピソードを読んで少し安心したというか、肩の荷が下りたように感じたんですね。

私が子供のとき、近しい親戚やドラマの中の大人がお酒を飲みながら「俺の人生はこんなはずじゃなかった」といっているのをみて、大人というのは厄介なものだなと感じたのを覚えています。

このような記憶と「死ぬときに後悔する○○のこと」という本やコラムが、自分の中で結びついたのだと思います。

ここに書いてあるような後悔をしないためには、大変な努力が必要なんじゃないか。そう考えるとちょっと気分が重くなっていたのです。

ところが努力を重ねた末に「功を成した」人たちが、臨終に際して「自分の誇れるもの」が「幼いころの思い出」だという。

これは自分の中でもう少し考えてみたいテーマだと思っています。