深層心理

その人の個性に合った方法じゃないと変わらないのではないでしょうか

昨日は、意志の力で自分の心を変えることはできないんじゃないか、というお話をしました。

本当に変えたければ、手術とか薬物とかの方法で、脳を物理的に変えるしかないんじゃないか。

そこまではちょっと、ということであれば、よくいわれるように、環境を変えることになるんだと思います。

職を変えるとか住む場所を変えるとか。

しかし、そこまでダイナミックに自分に変化を起こそうとすれば、私のような歳になると、被害を最小限に抑えたい人が大多数でしょうから、自分のことをよく理解した上で、自分の心がそれを望んでいるかを確認する。

そう考えると、自分を理解することの行き着く先は、自分の脳や遺伝子の様子を知るということとあまり変わらないように思います。

それが不可能なことは分かっていますので、多くの人は(いい方は悪いですが)どこかで妥協するのでしょうし、それがその人の個性ということになるのかもしれません。

人によってその判断の拠り所が、哲学であったり、仏教であったり、複雑な中国の五行占術や西洋の占星術であったり、・・・するのだと思います。

取り留めのない話になってしまいましたが、私のいいたいことは、その人の個性といっても、たくさんの要素が集まってできたものです。

性格を変えるとか自分を好きになるというのは意思の力では難しいと思います

昨年から「LIFE SHIFT(ライフ・シフト)100年時代の人生戦略」(東洋経済新報社)という本が売れているようで、今でも書店でよく見かけます。

時を同じくして、AIもどんどん身近になってきましたし、仮想通貨の話題も盛り上がっているようです。

以前より第四次産業革命などといわれても、今ひとつ実感がわかなかったのですが、ここに来て身の回りのものや価値観が、徐々に新しいものに置き換わっているように感じています。

これだけ新しいものが浸透し、寿命も伸びて行けば、ほとんどの人が否応なしに、自分の立ち位置を考えざるを得なくなっているように思います。

その度合いは人によって違うのは当たり前でしょうが、私のように、パニック障害などの心の問題をかつて抱えていた方や、今抱えている方は、そんなときちょっと困った感覚を持つのではないかと思うのです。

つまり、自分に自信がある人とか、自分を好きな人(自己肯定というのでしょうか)は、時代がどんなに変化しようが、今までどおり生きていればいいというような余裕を、心のどこかに持っているんじゃないか。

そう考えるたびに、私の場合はですが、自分の立ち位置を考える前に、まず最初に性格を変えるとか、自分を好きになるとか、そういう努力が必要じゃないのか、と思ってしまうのです。

ヴィパッサナー瞑想を行うための論書「アビダルマ」が複雑でめまいがしています

昨日の続きです。

角川ソフィア文庫の「仏教の思想」というシリーズ内の一冊、「華厳」が面白そうだと思ったところまでお話しました。

そしてまた別の日のことですが、最近インターネットや書店でよく目にするマインドフルネスについて少し調べていました。

どうもヴィパッサナー瞑想というものが元になっているらしいこと、そしてヴィパッサナー瞑想は、アビダルマという論書に沿って行うらしいということが分かりました。

「アビダルマ」といえば、「仏教の思想」シリーズの第二巻目じゃないですか。

それまでアビダルマについては、唯識三十頌の作者である世親が、阿毘達磨倶舎論を書いたという知識くらいしかありませんでした。

本の解説には、「アビダルマとは、ブッダが説いたダルマ=法・真理を解釈し、仕上げられた壮大な思想大系を意味する。」とあるのですが、これだけではすぐ読んでみたいとは思えなかったんですね。

さっそく、角川ソフィア文庫の「アビダルマ」の巻と「華厳」の巻を買って、少しずつ読み始めています。

「華厳」の巻には、ヨガを実践する瑜伽行唯識派にも取り入れられた、修行の階梯である十地品の解説もありますので、ヨガや坐禅についての理解も深まるのではないかと期待しています。

マインドフルネスの本を読むきっかけは「仏教の思想」というシリーズです

マインドフルネスがとても流行っているようなので、ちゃんと本を読んでおこうと思ったとお話しましたが、実はもう一つきっかけがありました。

以前、仏教の深層心理学である唯識について興味を持ったので、本を何冊か読んでいた時期がありました。

その中に、角川ソフィア文庫の「仏教の思想」という12冊のシリーズがあって、その内の一冊が「認識と超越 唯識」だったのです。

そのときは、仏教の思想は膨大だから12冊あるのは当然だろうな、くらいにしか思っていませんでした。

シリーズの中には「中観」について書かれた巻があり、「これが唯識と論争していた宗派か・・・」とか、他には「華厳」について書かれた巻があり、「これが河合隼雄さんの本、夢記の明恵上人の宗派か・・・」などと考えて、多少は気にしていました。

玄侑宗久さんの「100分de名著ブックス 荘子」のことを書きましたが、そこには仏教が初めて中国に紹介される際、仏典の翻訳に老荘の思想や言葉が使われたことや、荘子は坐禅に近い坐忘(ざぼう)を行っていたことなどが書かれていました。

あるとき、角川ソフィア文庫の「華厳」の巻の目次を見ていると、「荘子より華厳へ」という項目や、「明恵の華厳思想」という項目を見つけました。

何だか面白そうです。

現代は脳がオーバーヒートしやすい社会なのだと思います

ヨガやマインドフルネスの話題を、本当によく聞くようになりました。

昨日も書いたように、私が子供の頃は「癒し」という言葉を聞いた記憶がありません。

当時の大人たちは、ヨガはもちろん坐禅をする人もあまりいなかったのではないでしょうか。

スマートフォンもパソコンもありませんでしたから、現代のように溢れる情報の中で生活してはいません。

今から考えるとずいぶん牧歌的というか、生活そのものが禅のような感じですよね。

子供の遊びを例に挙げると、質的に変化したのはインベーダーゲームあたりからじゃないかと思います。

それ以前の遊びは、ボードゲームやプラモデルなどもありましたが、はるか昔から変わらない、こま回しや凧揚げやゴム飛びなども、普通にやっていました。

テレビゲームはそれらとはかなり違います。

「信長の野望」という有名なゲームがありますが、発売元がまだ株式会社光栄さんだったときに遊んだ記憶があります。

自分の国を治めるために、軍事や農業や治水など、政治家になったように頭を働かせる必要があるのですが、そんな遊びはテレビゲーム以前にはあまりなかったように思います。

癒しのアイテムの流行はまだまだ続きそうです

最初にマインドフルネスの情報に触れたときは、坐禅や瞑想の一種かなと思いました。

調べてみると、坐禅や瞑想から宗教的な要素を取り除いて、心理療法などに使われているということが分かりました。

マインドフルネスの前はヨガが流行っていたように思います。

ヨガも少し調べてみたのですが、こちらは起源を特定することができないほど古いもののようです。

私がイメージするのは、昔からインドで行われてきたもので、仏教に取り入れられたものが坐禅になったという感じです。

何度か書いてきた大乗仏教の深層心理学ともいわれる唯識ですが、こちらもヨガを実践する学派で、正確には瑜伽行唯識学派といいます。

ヨガの体験からも唯識の教理が生み出されたのですね。

しかしヨガもマインドフルネスも、日本で流行るものはオシャレなイメージです。

表参道や麻布のホットヨガスタジオに、仕事帰りのOLさんが通っているような・・・。

ヨガの前に流行っていたものは何だったでしょうか。

マインドフルネスやヨガのように、書籍や雑誌として数多く出版されていたのは引き寄せの法則だったような気がします。

マインドフルネスは効果がありそうです

以前、マインドフルネスについて簡単な記事を書きました。

そのときはほとんど知識がなかったのですが、インターネットに坐禅との違いについての記事があったので、それを参考にしました。

最近ますます、マインドフルネスについての書籍や情報が増えているようです。

そこで、ちゃんとマインドフルネスについての本を読んでおこうと、香山リカさんの「マインドフルネス最前線」(サンガ新書)という本を買いました。

心理学の方やお坊さんが解説されている本がいいと思っていたので、これはうってつけです。

読み始めていきなり驚いたのは、マインドフルネスはテーラワーダ仏教のヴィパッサナー瞑想というものが元になっているというところです。

テーラワーダ仏教といえば、数年前から精力的に仏教関連の本を執筆されている、アルボムッレ・スマナサーラ長老という方の宗派です。

よく見かけていた方がマインドフルネスに関係があったと知って、ちょっとびっくりしました。

そして次に驚いたのは、対談相手の方々が、マインドフルネスは効果があると仰っていることです。

香山さんは精神科医ですし、熊野宏昭さんという心療内科医の方とも対談されていますので、現場の病院での実情を知ることができます。

私の関わり方は科学者の方には申し訳ない、いい加減な態度だと思います

昨日は、民俗学などの学者さんは仕事上、興味の赴くままにフラフラと寄り道することはできないだろうな、というお話をしました。

私が興味を持っているのは人の心に関することなのですが、漠然としすぎてカテゴリーに分けることもできないと思います。

心理学、民俗学、歴史、・・・小説も好きですし、どれも恐ろしく広く浅い関わり方です。

そう考えてみると、科学はその対極にあるような気がします。

以前、V・S・ラマチャンドラン他著の「脳のなかの幽霊」(角川文庫)のお話をしたと思うのですが、面白い実験結果よりも、客観性を保つための実験の準備の方に驚きます。

有名な、福岡伸一さんの「生物と無生物のあいだ」(講談社現代新書)や、本川達雄さんの「ゾウの時間 ネズミの時間」(中公新書)のような本でも同じことを感じます。

このような科学者の方々の実験のおかげで、病気になったときも安定した治療が受けられるのですね。

先日、小松和彦さんの「悪霊論」(ちくま学芸文庫)を読んでいたら、ちょっとびっくりすることが書いてありました。

平安時代、病気の治療のために密教僧が加持祈祷を行っていたのですが、その際、「憑坐(よりまし)」と呼ばれた霊媒も同席します。

興味のつまみ食いを楽しむには条件があるようです

小松和彦さんのような民俗学などの学者さんは、仕事として関わっている研究テーマや論文の執筆などがあるでしょうから、アマチュアの私のように、興味の赴くままにフラフラと寄り道することはできないと思います。

先日から少しずつ読んでいる、赤坂憲雄さんの「境界の発生」には、村の境界にあるサイの神、道祖神の話が出てきます。

元々はアニミズムが原点だったのでしょうが、男女の像が彫られたものは中国の陰陽思想の影響でしょうし、私の実家の近くにあった恐ろしい形相の立像が彫られたものは、道教の庚申信仰だと思います。

村の境界にあるお地蔵さんも道祖神信仰と結びついたものといわれているようですね。

民間信仰ですから、ありとあらゆる信心が習合されて行く可能性があると思います。

道祖神の話ひとつとっても、これだけ多様な庶民の信仰や生活を研究できそうですので、興味さえ続けば、いくらでも楽しめそうです。

しかし、このように寄り道を楽しむためには、条件があるのではないかと思っています。

「さあ、才能(じぶん)に目覚めよう」(日本経済新聞出版社)という、自分の五つの強みを見つける有名な本があるのですが、私にはその五つの中に「収集心」という資質がありました。

心の話つながりで各分野に首を突っ込んでいることが面白いです

小松和彦さんのことを何度か書いてきましたが、私が最初に読んだ本は「日本の呪い」という題名だった記憶があります。

調べてみると、1988年に新書で発売されて、現在は「呪いと日本人」(角川ソフィア文庫)と改題されているらしいです。

20代後半だったと思うので、やっぱり当時からこの世界が好きだったんですね。

私の勤めていた会社に趣味の合う先輩がいて、この本を買ってすぐに「面白そうでしょう?」と見せたら、「こりゃすごい」と私が読む前に取り上げられたことがありました。

小松さんは当時から気鋭の民俗学者でした。

昨日まで能について書いていましたが、そのきっかけとなった安田登さんは、27歳から能の世界に入られたそうで、今ではワキ役の中堅として活躍されています。

野球のイチロー選手や、将棋の羽生名人の名前を出すまでもなく、一流の方は、早くからその道一筋に精進されています。

一方で私は、その時その時に興味のあるものを、あっちフラフラこっちフラフラとつまみ食いしているだけなので、エキスパートになれる分野もありません。