唯識は深層心理を通り越して生命の根源まで説明しているんじゃないかと思います

久しぶりに服部正明/上山春平共著「仏教の思想 4 認識と超越<唯識>」(角川文庫ソフィア文庫)を手に取って、湯浅泰雄さんの書かれた解説を読んでいたとき、次のような箇所に目が留まりました。

「アーラヤ識は個体の生死をこえて存続する超個体的な深層心理領域であるから、心理学にひきつけてみれば、ユングのいう集合的無意識や近年のトランスパーソナル(超個的)心理学のような考え方に通じるところがある。 (中略) ただし、アーラヤ識の考え方は、もっと複雑で広い内容をもっている。それは、個体の生死をこえて活動をつづけていると共に、人間ばかりでなく、すべての生命を輪廻転生させている宇宙的な生命活動の根底とも言うべきものである。表層的人間存在の中心にある「心王」は、個体の生から死に至る時間的持続に依存しているのに対して、アーラヤ識に支えられた生は、永遠にくり返す悠久な時間と活ける大自然のリズムの中にある生としてとらえられている。」

そうなんです。

河合隼雄さんの本を通してユングにどこか共感するところを感じていたので、唯識仏教までたどり着いたのだと思いますが、唯識の無意識はずいぶん深いところまで行くなと感じていました。

一方で易経に触れたのは、陰陽五行を使った占術に興味があったので、それが直接のきっかけだったと思います。

ユングの共時性の概念はウィルヘルムの易経の翻訳から触発されたという話は、易経に触れる前だったか後だったかは忘れましたが、やっぱりユングに共感するところがあったので易経にたどり着いたのだと思います。

易経の世界は、人間社会や自然環境すべてを網羅しているんじゃないかとさえ感じていましたが、湯浅さんの解説を読んであらためて思ったのは、唯識の世界は深層心理を通り越して生命の根源まで行ってるんじゃないかということ。

漠然と感じていたことも、ちゃんと説明されなければ、それを言葉にすることもできないですね。