唯識の善の心所を思い出すたびに自分の行為を反省してしまいます

数週間前から、私が持っている唯識の本の心所有法について書かれている箇所を読み返しています。

心所有法とは心の働き、心の作用の面を細かく分析したもの。六つのグループ、五十一種類に分類されています。

私が唯識仏教の中で特に惹かれている部分で、よくもまあここまで分析したなぁと驚かされます。

1500年前のお坊さんたちが瑜伽行(ヨガのことですね。坐禅のようなものではないかといわれています)をしながら、「ああでもない、こうでもない」と探求して行ったんだと思います。

この心所有法を知るまでは、心理学の本を何冊読んでも心というのはよく分からないものだと思っていました。

なのでこれを知ったときは、大乗仏教の範囲内ではありますが、ここまで心のことが体系化されていたんだなと感動しました。

先日読んだのは六つのグループのうちの善の心所。「信」から「不害」まで十一種類あります。

いつも感心するのは最後の二つ。行捨(ぎょうしゃ)と不害。

行捨は好き嫌いを離れ、平等にして偏らない。平静な気持ちを保つこと。不害は相手を傷つけない、相手へのおもいを忘れないこと。

太田久紀著「唯識の読み方―凡夫が凡夫に呼びかける唯識」(大法輪閣)に書かれていることですが、善の行為が刃になることがあるといいます。

本人も気付かない善の押し付け。以下抜粋です。

「<善>を強要する、悪を糾弾する―その時、あまりにも<善>にむきになりすぎて、<行捨><不害>の余裕が見失われていることはないであろうか。仏の教えたもう<善>は、もっともっと、ゆったりとしたものなのである。」

気が付くとそのような心になっていることが多いです。ダメだなぁと思います。