少数派の人たちの心を理解しようという気持ちはあります

ニューロダイバーシティ=脳の多様性という概念を知ったところから、結構長い記事になってしまいました。

私は子供の頃から、社会に対して生きづらさを感じているところがあったので、このような概念が紹介されている記事を見かけると、つい夢中になるんですね。

自分の場合は、パニック障害からウツの症状に陥ってしばらくは、社会生活ができない期間もあったのですが、それが長期化しなかったことはありがたかったと思います。

しかしそのような資質を持っていることは今でも自覚していますし、先の記事のようなものを見かけると興味を持つ自分に気付くので、少数派といわれる人たちの心は、分かるとはとてもいえませんが、理解しようという気持ちはあります。

一方で、多数派といわれる人たちの気持ちですが、そちらの方はあまり理解できるとは思えません。

もちろん「少数派」と「多数派」で二つにくくるのは、乱暴すぎるのは分かっています。

少なくとも人生のレールと呼ばれる場所、学生ならば学校で、社会人ならば職場で、それぞれ何か大きな違和感や障害(人とコミュニケーションが取れないなど)を感じて、長期間家に引きこもるとか、そのレールを外れた世界で生活するような人は、多数派ではないように思います。

そんな中、糸井重里さんがほぼ日刊イトイ新聞で、「マイ仮説」と前置きされながら「「ストレスの利用法」というようなもの」について書かれた文章を読みました。

以下その抜粋です。

「それは「ストレスの利用法」というようなものだ。ストレスというものは、多くの人が考えているようにマイナスの状況でだけかかってくるというものではない。うれしいことでも、感動したことでも、ストレスはかかっているのだ。旅をしている間は、いつもとちがう場所にいて、いつもとちがう人に会い、いつもとちがう時間を過ごす。それは、ストレスがかかっているということだ。じぶんが生きていくうえで、いつもとちがった対処をしなくてはならないとき、すべてストレスがかかってくる。

旅ばかりでなく、新学期も、新婚も、引っ越しも、組織替えも、新しい勉強をすることも、好きな人ができておつきあいがはじまったことも、みんなそれぞれストレスだらけなのだと思っていい。あたまも、からだも、こころも、まるごとが、微妙に「やったことないこと(事件や事故みたいな)」に、挑戦することになるから、とても疲れる。疲れるけれどたのしいだとか、しょうがないだとか、ストレスを忘れて取り組んでいくと、やがては、それができるじぶんになっていく。」