精神的に余裕がないという理由でアートに関する本を遠ざけていたことを反省しました

今日久しぶりに近所の本屋さんに寄ったら、落合陽一さんという方の「0才から100才まで学び続けなくてはならない時代を生きる 学ぶ人と育てる人のための教科書」(小学館)という何とも刺激的なタイトルの本に目が止まりました。

サッと目を通しただけなのですが、最後の章「アート コンテクストを持った鑑賞力と創造力」が印象に残りました。

実は以前よりタイトルが印象に残った本で、山口周著「世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?」(光文社)や岡崎大輔著「なぜ、世界のエリートはどんなに忙しくても美術館に行くのか?」(SBクリエイティブ)などと同じような文脈なのかな、と感じたんですね。

どれもちゃんと読んでもいないのに、ここに書くのは気が引けるのですが、不確定な時代に自分の判断基準を養っておくのは重要なことなんだろうなと思います。

ここ数ヶ月読んでいるのは、将来仕事に関係しそうな決まったジャンルの本ばかりで、アートに関する本に手が伸びなかったのです。

以前はブログにマニエリスムやロシア・アヴァンギャルドなどの本について書いたこともあるのですが、精神的に余裕がなければアートのようなあまり役に立たないことは棚上げしておこう、という意識が働くのかもしれません。

これを書き始めたのはもう一つ理由があります。

昨日糸井重里さんの「ほぼ日刊イトイ新聞」を読んでいたら「ほぼ日・デリバリー版。」というアーカイブへのリンクがあって、「第29号 芸術でメシが食えるか。」という記事の中に次のような文章を見たからなのです。

「言語も発達していなかった時代に、
すでにネアンデルタール人は、人が死んだ時に
花をそえる心を持っていたわけです。
どういう気持ちでそえたのかはわからないけれども、
すでに、それは、「要らないもの」ですよね。
死んでしまった人に花をたむけるという、
そんなことの延長線上にぼくらがいると考えると、
「要らないもの」って、大事にしていいんじゃないかなぁ。」

ほんとそうだなぁ、大事だよなぁ・・・、と思ったのが昨日の今日だったんですね。

忙しくてもアートに関する本は手元において目を通していよう、と感じた出来事でした。