文化に関する話

自分はどの程度の規模の会社に向いているのか働いてみなければ分からないと思います

昨日は近所で買い物をするスーパーで、天候不順のときなどに不足しがちな食品について、大手のイオングループの底力を感じたというお話をしました。

しかしそのような特別な時期でない限り、普段買うものに関しては地方のスーパーとそう変わりません。

地方のスーパーの方が地元の大きな野菜であったり、お刺身の量が多かったりと、こちらの方を選ぶ理由も多いです。

また地方のスーパーは、同じグループでもお店によってカラーが違っていたりします。

私の住んでいる地区にも同じグループの地方スーパーがあるのですが、特に生鮮食品の品揃えが違います。

大手スーパーは商品の納入業者が統一されているのだと思います。

そういう意味では、地方のスーパーの方が店長の裁量権が大きいのだと思いますし、店長以外のスタッフも個人の判断に任せられる範囲が大きいのではないかと思います。

これはどの業界でも同じですよね。

私も独立してかなり経っていたのですが、ある下請け会社のチームを率いて、業界大手の会社に泊りがけで作業をしに行ったことがあります。

私のクライアントさんの部署以外にもいくつかの部署があったようで、食堂ではあまり面識のなさそうな社員の方同士が、かしこまって会話されているのを見かけました。

大手と地方のスーパーには普段気付かない違いがありました

昨日、近所のマックスバリュで買い物をしたときの話を書きましたが、私の近所のスーパーは、マックスバリュかその親会社のイオンばかりになりました。

地下鉄七隈線の野芥駅にあるイオンも、それより少し北にあるイオンのショッピングセンターも、昔はダイエーだったので、イオングループばかりになるはずです。

福岡が拠点のスーパーもありますが、そちらはお刺身もちょっと量が多かったり、焼き魚や魚の煮付けが家庭的な感じがするので、よく利用します。

基本的にはそちらのスーパーの方が品物が安かったり、生鮮食品などの量が少し多かったりします。

一方で、イオングループのスーパーには価格の安いプライベートブランドがあったり、お惣菜の種類が豊富だったりするので、利用する頻度は福岡のスーパーとイオングループのスーパーは同じくらいです。

ただ、これは大手にはかなわないと感じたことが二つあって、その一つは製氷機です。

イオングループには必ず製氷機が設置してあって、夏に生鮮食品を買ったときは重宝します。

もちろん福岡が拠点のスーパーにも、氷の入ったクーラーボックスは置いてあるのですが、酷暑の日の夕方にはなくなっていることも多いです。

街が発展すれば外国の方が多く住むようになるのでしょうか

先日から、福岡の街でも欧米の方をよく見かけるようになったというお話をしていますが、今日たまたま近所のスーパーのマックスバリュで買い物をしていたら、中国語を話す二人組みの方を見かけました。

普段着のようでしたので、近くにお住まいの方ではないかと思います。

私の住んでいるところは福岡市といっても西の外れ。田舎というほどでもないのですが、街ではありません。

以前、ある会社に出向のような形で出勤していたとき、たまに休み時間に話をする社員の方がいました。

その方が今の部署に転勤になる際、家族で最初に引越し先に選んだのが、私の住んでいる地域だったと話されていました。

そんな人は珍しいので理由を聞いてみると、何でも家賃が安くて、交通もそれほど不便ではないぎりぎりに地域という条件で選んだそうです。

そのときは妙に納得しました。

私は小学校に入学する頃から住んでいるのですが、このような場所にもついに外国の方が住むようになったのかと思うと、感慨深いものがあります。

そういえば4、5日前の新聞に、九州大学伊都キャンパスに今年オープンする中央図館書が、年間1億円の命名権者を募集、という記事がありました。

福岡は九州をめぐる拠点として外国の方を呼び込んで行くといいのかもしれません

福岡や佐賀は昔からアジアと深い関係があって、有田焼のような有名な窯元や博多名物の明太子など、大陸をルーツとするものはまわりにたくさんあります。

中国や韓国の影響はとても大きいと思うのですが、国際色豊かという感覚はありません。

福岡の人の性格が「あけっぴろげ」といわれているのは、昔からアジアの人を受け入れるのが当たり前だったので、最初から国際色豊かだという状況に気付いていないだけなのかもしれません。

これが長崎まで行くと、大浦天主堂のようなキリシタンの方たちの教会や、新地中華街のような異国情緒溢れる地域に変わります。

福岡にも大友宗麟や黒田如水のようなキリシタン大名がいたのですが、そのような名残のある地域は思い付きません。

そういえば数年前に知ったのですが、私が小学校の頃、毎年遠足で登っていた油山観音の正覚寺を開いた清賀上人という方は、何とインドのお坊さんだそうです。

異国に触れる機会はあったのでしょうが、やはり長崎の出島のような西洋との窓口のような施設がなければ、異国色の強い文化は定着しないのかもしれません。

しかし現代であれば、観光で世界に知られるようになるというのはあると思います。

福岡の街も最近は欧米の方が増えてきたように感じます

今日は打ち合わせに行くために地下鉄に乗っていたら、終点の南天神駅近くで、男性が急に私の隣の空いている席にリュックサックを置いて、私の目の前で片膝をつく格好で靴紐を結び始めました。

それまで眠くてウツラウツラしていたのですが、エッ?!と驚いて目が覚めて、でもあまりにその人が近くて直視できないでいると、電車がホームに着いてみんな降りて行きました。

私もみんなについて降りて後姿を確認してみると、その方は3、4人組の白人の方でした。

やっと冷静になって考えてみると、確かに日本人は人が座っている目の前で靴紐は結ばないなと思って、びっくりした理由が分かりました。それに地下鉄七隈線は比較的田舎を走る路線なので、利用するのは日本人ばかりという思い込みがありますし。

子供の頃から接してきた日本人の行動と、妙に違っていたからなんですね。

自分では全然ムッとした感覚ではなくて、それどころかヘェーっと新鮮に面白く感じました。

それから今度は打ち合わせが終わって、天神地下街にあるセブン銀行のATMで順番待ちをしていたときのことです。

前の方が終わったのでATMの前に立ったら、中国語の案内画面から日本語の初期画面に戻る最中でした。

それにもまた驚いてしまいました。

道具にかけるお金を考えるとパソコンを使う仕事でよかったと思います

先日より、名車や楽器の名器といわれるものの中には、引いてしまうくらい高価なものがあるというお話をしています。

それを考えると、私はITの仕事をしているため、道具にお金をかけずに済んでいるのかもしれないと思えてきました。

もしクルマ関係の仕事をしていたら、仕事仲間で所有しているクルマの見せ合いなどになって、価値のあるクルマを手に入れたくなるでしょうし、ミュージシャンであればいい楽器を持ちたいと思うことは当たり前でしょう。

以前ギター教室の先生をしている知人が、お金がないのについギターを買ってしまう、と苦笑していました。

気持ちは分かります。

ギターの月刊誌を見ると、とても魅力的なギターの新製品やビンテージ商品がたくさん載ってますよね。

あんなのを見ると私でも欲しくなってしまいます。

ギターなんてマーケットが巨大なので、アンプやエフェクターのような周辺機器も含め、山のような製品で溢れています。

当然欲しい人が多ければ、その商品の価格も上がって行きます。

同じようなことはカメラマンのカメラであったり、料理人の包丁であったりするのだと思います。

しかしパソコンの世界はちょっと違うんじゃないでしょうか。

IT製品は高価なものであっても将来価値が出てくることはなさそうです

お金があれば昔のもので価値のあるものをコレクションしたいと思いますが、あまりにも歴史的に価値のある名車や楽器の名器になると、気持ちがちょっと引いてしまうということを昨日書きました。

次の世代に引き継がなければならない義務が生まれてしまうと、純粋に所有する喜びは減って行きそうです。

「所有」という意識だからいけないんですかね。「投機」という意識に変わる可能性もあるのですから。

使う喜びのために手に入れる、という意識でいることが健全なのかもしれません。

それでいくと、パソコンやスマートフォンのようなIT製品は新製品のときが一番高価だと思います。

以前ほどCPUのクロック数やメモリやハードディスクドライブの容量の進化は急激ではなくなりましたが、それでも新品を買って半年もすると、最新の機種に比べて見劣りするんじゃないでしょうか。

まだ十分使えるのに、セキュリティなどの問題で使われなくなったWindows XPパソコンなんて記憶に新しいところです。

今思い出したんですが、プリンターなんてその最たるものですよね。

名車や楽器などの名器があまりに価値が高いと所有する喜びはわかないかもしれません

数日前のニュースですが、富山県の国道でトヨタ2000GTが倒木の直撃を受けて大破し、所有者と運転手の方が県を相手に車代や治療費などの損害賠償を求め訴訟を起こしていたようですが、それが和解する見通しになったそうです。

和解金は1787万円。

トヨタ2000GTといえば、アメリカのオークションで1億円を超える高値が付いたことが話題になったように、この和解金も普通の乗用車とは桁が違います。

私は昔のクルマが好きで、自宅の車庫にこの2000GTを置いて毎日眺めることができたら幸せだろうな、と考えることもあるのですが、このようなニュースを聞くとちょっと引いてしまいます。

バイオリンのストラディバリウスを所有しているあるバイオリニストがインタビューで、自分のものという意識はなく、次の世代に継承するために預かっているという趣旨のことをおっしゃっていました。

私もお金があれば、名車とかバイオリンの名器といわれるものを所有してみたいとは思いますが、クルマであれば雨の日であろうが乗りたいときは乗りたいですし、バイオリンであればお酒を飲んで気分がいいときに弾いてみたくなることもあると思います。

次の世代に継承するための預かり物という意識で触ると、酔いが醒めてしまいそうです。

宗教がなくなった時代の方がより豊かな想像の世界を持っているのかもしれません

森毅さんや三田誠広さんの本をざっと読んでみて、まだ内容は消化できていませんが、17世紀以前も今の時代も人の心は変わらないという印象だけは受けました。

三田さんの「ダ・ヴィンチの謎 ニュートンの奇跡」(祥伝社新書)によれば、民衆を支配していた宗教、カトリックは神父のいうことだけを信じていればよく、神の原理=科学原理を追求するダ・ヴィンチ、ニュートンのような科学者たちを神秘主義者として否定した。

しかし科学者たちは、神を信じるがゆえに神の原理=科学原理を追求したのだ、ということをおっしゃっています。

森さんの本もそうですが、これらを読む前はニュートンのような17世紀以前の数学者、物理学者は、錬金術のような怪しげなオカルトも研究した魔術師のようなイメージも持っていました。

実際はそうではなく、宇宙の原理を真摯に追求していたらしい。

オカルトのイメージなんて後世の人の脚色ですよね。

以前も、安倍晴明の実像と後世のフィクションに彩られた姿との違いを書きましたが、それと同じです。

ニュートンの時代は産業革命の前の世紀、生活の中にまだ宗教が大部分を占めいていたと思います。

それなのに、21世紀の人間である私が17世紀の科学者に何を期待していたんだろう、と。

森さんの本から17世紀のヨーロッパやライプニッツへの接し方が分かりました

昔から森毅さんのエッセイが大好きで、体を壊して療養中に読んでいたときは、森さんの柔軟な世の中の見方に対して、自分はそれまでずいぶん硬直した考え方をしていたなと反省したものです。

そんな森さんの本、「魔術から数学へ」(講談社学術文庫)にざっと目を通してみて、自分なりに17世紀のヨーロッパやライプニッツへの接し方が分かりました。

森さんは本の中で、ライプニッツの哲学は奥深くてカントに乗りこえられてしまうようなものではないと思うが、ここでそれを論ずるほど学識ゆたかではない、とおっしゃっています。

続けて哲学者にリクエストして、「どなたかライプニッツの解説をして、僕にも少しはわかるようにしてほしい」とも。

もちろん、森さんが「わからない」というレベルは私とは次元が違うのは理解していますし、森さんが分からないなら私がライプニッツを分かるわけがないということも納得できました。

これからは、逆に気楽にライプニッツの哲学に接することができそうです。

驚いたのは森さんが一番憧れているのは17世紀中葉、バロックの最盛期とのこと。

「それは、近代の生まれる混沌の時代であったからだ。」と説明していらっしゃいます。

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