文化に関する話

道具にかけるお金を考えるとパソコンを使う仕事でよかったと思います

先日より、名車や楽器の名器といわれるものの中には、引いてしまうくらい高価なものがあるというお話をしています。

それを考えると、私はITの仕事をしているため、道具にお金をかけずに済んでいるのかもしれないと思えてきました。

もしクルマ関係の仕事をしていたら、仕事仲間で所有しているクルマの見せ合いなどになって、価値のあるクルマを手に入れたくなるでしょうし、ミュージシャンであればいい楽器を持ちたいと思うことは当たり前でしょう。

以前ギター教室の先生をしている知人が、お金がないのについギターを買ってしまう、と苦笑していました。

気持ちは分かります。

ギターの月刊誌を見ると、とても魅力的なギターの新製品やビンテージ商品がたくさん載ってますよね。

あんなのを見ると私でも欲しくなってしまいます。

ギターなんてマーケットが巨大なので、アンプやエフェクターのような周辺機器も含め、山のような製品で溢れています。

当然欲しい人が多ければ、その商品の価格も上がって行きます。

同じようなことはカメラマンのカメラであったり、料理人の包丁であったりするのだと思います。

しかしパソコンの世界はちょっと違うんじゃないでしょうか。

IT製品は高価なものであっても将来価値が出てくることはなさそうです

お金があれば昔のもので価値のあるものをコレクションしたいと思いますが、あまりにも歴史的に価値のある名車や楽器の名器になると、気持ちがちょっと引いてしまうということを昨日書きました。

次の世代に引き継がなければならない義務が生まれてしまうと、純粋に所有する喜びは減って行きそうです。

「所有」という意識だからいけないんですかね。「投機」という意識に変わる可能性もあるのですから。

使う喜びのために手に入れる、という意識でいることが健全なのかもしれません。

それでいくと、パソコンやスマートフォンのようなIT製品は新製品のときが一番高価だと思います。

以前ほどCPUのクロック数やメモリやハードディスクドライブの容量の進化は急激ではなくなりましたが、それでも新品を買って半年もすると、最新の機種に比べて見劣りするんじゃないでしょうか。

まだ十分使えるのに、セキュリティなどの問題で使われなくなったWindows XPパソコンなんて記憶に新しいところです。

今思い出したんですが、プリンターなんてその最たるものですよね。

名車や楽器などの名器があまりに価値が高いと所有する喜びはわかないかもしれません

数日前のニュースですが、富山県の国道でトヨタ2000GTが倒木の直撃を受けて大破し、所有者と運転手の方が県を相手に車代や治療費などの損害賠償を求め訴訟を起こしていたようですが、それが和解する見通しになったそうです。

和解金は1787万円。

トヨタ2000GTといえば、アメリカのオークションで1億円を超える高値が付いたことが話題になったように、この和解金も普通の乗用車とは桁が違います。

私は昔のクルマが好きで、自宅の車庫にこの2000GTを置いて毎日眺めることができたら幸せだろうな、と考えることもあるのですが、このようなニュースを聞くとちょっと引いてしまいます。

バイオリンのストラディバリウスを所有しているあるバイオリニストがインタビューで、自分のものという意識はなく、次の世代に継承するために預かっているという趣旨のことをおっしゃっていました。

私もお金があれば、名車とかバイオリンの名器といわれるものを所有してみたいとは思いますが、クルマであれば雨の日であろうが乗りたいときは乗りたいですし、バイオリンであればお酒を飲んで気分がいいときに弾いてみたくなることもあると思います。

次の世代に継承するための預かり物という意識で触ると、酔いが醒めてしまいそうです。

宗教がなくなった時代の方がより豊かな想像の世界を持っているのかもしれません

森毅さんや三田誠広さんの本をざっと読んでみて、まだ内容は消化できていませんが、17世紀以前も今の時代も人の心は変わらないという印象だけは受けました。

三田さんの「ダ・ヴィンチの謎 ニュートンの奇跡」(祥伝社新書)によれば、民衆を支配していた宗教、カトリックは神父のいうことだけを信じていればよく、神の原理=科学原理を追求するダ・ヴィンチ、ニュートンのような科学者たちを神秘主義者として否定した。

しかし科学者たちは、神を信じるがゆえに神の原理=科学原理を追求したのだ、ということをおっしゃっています。

森さんの本もそうですが、これらを読む前はニュートンのような17世紀以前の数学者、物理学者は、錬金術のような怪しげなオカルトも研究した魔術師のようなイメージも持っていました。

実際はそうではなく、宇宙の原理を真摯に追求していたらしい。

オカルトのイメージなんて後世の人の脚色ですよね。

以前も、安倍晴明の実像と後世のフィクションに彩られた姿との違いを書きましたが、それと同じです。

ニュートンの時代は産業革命の前の世紀、生活の中にまだ宗教が大部分を占めいていたと思います。

それなのに、21世紀の人間である私が17世紀の科学者に何を期待していたんだろう、と。

森さんの本から17世紀のヨーロッパやライプニッツへの接し方が分かりました

昔から森毅さんのエッセイが大好きで、体を壊して療養中に読んでいたときは、森さんの柔軟な世の中の見方に対して、自分はそれまでずいぶん硬直した考え方をしていたなと反省したものです。

そんな森さんの本、「魔術から数学へ」(講談社学術文庫)にざっと目を通してみて、自分なりに17世紀のヨーロッパやライプニッツへの接し方が分かりました。

森さんは本の中で、ライプニッツの哲学は奥深くてカントに乗りこえられてしまうようなものではないと思うが、ここでそれを論ずるほど学識ゆたかではない、とおっしゃっています。

続けて哲学者にリクエストして、「どなたかライプニッツの解説をして、僕にも少しはわかるようにしてほしい」とも。

もちろん、森さんが「わからない」というレベルは私とは次元が違うのは理解していますし、森さんが分からないなら私がライプニッツを分かるわけがないということも納得できました。

これからは、逆に気楽にライプニッツの哲学に接することができそうです。

驚いたのは森さんが一番憧れているのは17世紀中葉、バロックの最盛期とのこと。

「それは、近代の生まれる混沌の時代であったからだ。」と説明していらっしゃいます。

森毅さんの未読本に出合えたりしてライプニッツを知ってよかったと思います

先日、ライプニッツに注目するようになって、17世紀にとても興味を持ち始めていることを書きました。

彼は数学や科学の分野に多くの業績を残したのですが、最善説のようなものを始めとして、世界を説明する際に神の影響を語ります。

ライプニッツとほぼ同時期に微分積分を発見したニュートンにしても、二人より少し前のデカルトやパスカルにしても同じような宗教色を感じます。

その時代背景を説明してくれそうな本はいろいろあるようですが、手軽そうなところで、森毅さんの「魔術から数学へ」(講談社学術文庫)と三田誠広さんの「ダ・ヴィンチの謎 ニュートンの奇跡」(祥伝社新書)を購入しました。

ざっと目を通してみると、どちらの本も数学と宗教の両面から人物と時代を解説してくれていますが、三田さんの方はより具体的な思想や団体名が示されていて、まさにサスペンス小説を読むように引き込まれてしまいます。

森毅さんの方はスコラ哲学、自然魔術、産業技術、封建貴族と王の官僚としての知識層、その知識層と結びつく商工業者など、より広範な範囲から考察されています。

私は昔から森さんの柔軟な発想と遊び心が大好きで、目に留まったエッセイ本はできるだけ買いましたし、手に入らないものは図書館で目を通しました。

サザエさんのような存在のソフトを作ることができればすごいことです

昨日はサザエさんを見始めた頃の思い出をお話しました。

放送が始まって何十年も経つうちに、サザエさん症候群という、日曜の夕方に明日から始まる学校や会社を思い出して憂鬱になる症状の名称などもできました。

「症候群」とは医学用語のようですが、テレビ番組名に医学用語をくっ付けて呼ばれるほどに、安定感のある番組ということなのでしょう。

どんなに人気のある番組でも、ずっと打ち切られないで続くなんて考えられないと思います。

サザエさんは、いつかは打ち切られるという不安も感じられないので、このような症状の名称に使われたのではないでしょうか。

何といっても安心感があるのはあのストーリーですよね。誰にでもありそうな日常が描かれています。

長寿番組といえば、「笑っていいとも!」や「笑点」などもそうでしょうが、サザエさんはアニメなので出演者は年を取りません。

終わって欲しくないテレビ番組のアンケートではいつも上位に来るようですし、もし終了するようなことがあるとすれば、今回のようにスポンサーが付かなくなることくらいですかね。

テレビ番組が終了しても、サザエさんのスタートが地方新聞の4コマ漫画であったように、何かの媒体で連載が続いて行くように思います。

サザエさんの新しいスポンサーが決まったと聞いて昔を思い出しました

東芝がサザエさんのスポンサーを降りることが決まっていましたが、新しいスポンサーが決まったようですね。

サザエさんは私が子供の頃から放送されていて、当時は江利チエミさんの実写版サザエさんもやっていた記憶があります。

確か波平さんが家族の前で自分が体験した怖い話をして、江利チエミさん演じるサザエさんが「ああ怖い、マスオさん一緒にトイレについてきてよ」みたいなシーンだった気がします。

私もすごく怖かったので今でも憶えています。

アニメを見始めたとき、私はカツオ君より若かったのですが、今では波平さんの年齢を超えてしまいました。

サザエさんが生まれたのは、原作者の長谷川町子さんが福岡に住んでいた頃、地元の新聞に連載していた4コマ漫画らしいです。

福岡には長谷川さんが散歩をしながら構想を練ったといわれている「サザエさん通り」というのがあって、私が毎日高校に通っていた道もそこに含まれています。

当時はそのようなエピソードはまったく知らなかったのですが、長谷川さんの実家がこの近くにある、という噂だけは知っていました。

散歩をされていたというのは百道(ももち)の海岸だったそうですが、私が高校に通っていた当時、海岸は高校の敷地に隣接していたように記憶しています。

ただ気楽におしゃべりに集中できる居酒屋であればいいのだと思います

今でも角打ちの雰囲気は好きですが、20代後半の方がよりうらぶれた飲み屋に行きたい気持ちがありました。

日常もオシャレとは程遠い環境で生活しているので、現実逃避というわけでもなさそうです。

当時の上司の人たちは、普通の居酒屋で飲んだあと、女性のいる飲み屋に行きたがる人が多かったように記憶しています。

音楽が好きな上司や同僚は、ブルースやロックが流れている居酒屋を好んでいました。

独立してから、そう年も離れていないクライアントの部長さんに、恐ろしくハイセンスなバーに連れて行かれて驚いたこともあります。

こういうところにも人の好みというのは現れるんですね。

今思いついたのですが、私は飲んでいるときは、いろいろなことについて語り合いたいのかもしれません。

子供の頃、父親や親戚の叔父さんたちが、飲みながら楽しそうにおしゃべりしているのを見て、いいなぁと思っていました。

私の勝手なイメージですが、三軒茶屋の安居酒屋で演劇論を戦わせる役者の卵・・・みたいなことに私自身憧れがあるようです。

ただダラダラと飲みながらおしゃべりするだけなら、ホッピーと中(焼酎)だけあれば小汚い居酒屋でもいいのです。

私が若い頃はおじさんが飲むようなお店に興味がありました

今日お昼に帰省した友達と天神で飲んだのですが、開いているのは若い人向けのお店ばかりで、自分たちが落ち着けるようなところが見つからず苦労しました。

夜は用事があったのでしょうがないのですが、1月3日のお昼に「見つからない」と文句をいう方が悪いですよね。

最初に入ったのはいつも行く角打ちでしたが、次から次にお客さんが来るので長居するのも悪いと思い、場所を変えようとしたのがまずかったです。

薬院駅の昭和の雰囲気が残っている三角市場に向かって、いい店はないかと歩いたのですが、ほとんど閉まっています。

あきらめて天神に戻り、いつも行く別の角打ちを覗いてみたらそこもお休み。

その隣に新しくできていた立ち飲み屋さんに入りました。

入ってびっくり。お洒落なカクテルばかりで、日本酒や焼酎がありません。

しょうがないので「ビールください」と頼んだら、「キール」というカクテルが出てきました。

一杯だけ飲んで、駅に近いPRONTOでビールを飲んで帰ってきました。

昔は昼もやっているキリンシティのようなお店があちこちにあって、このようなときも開いていて助かったものですが、あのようなスタイルは流行らないのでしょうね。