文化に関する話

長い歴史を持つ自動車メーカーは多いのでそれに当てはめて考えてしまいます

じゃあトヨタはどうなんだ。近年F1やル・マンに挑戦したり、GRというスポーツカーのブランドを立ち上げているじゃないか。

そうはいっても、トヨタにレーシングスピリットを感じている人は、あまりいないんじゃないでしょうか。実際どうなのでしょう?

ホンダもGT-Rもトヨタも、1960年代からレースを戦ってきたのですが、やはり本田宗一郎さんや桜井眞一郎さんの影響が大きいような気がします。

このような歴史を知っている人は、ホンダや日産のファミリーカーや商用車に乗ったときに、たまたまキビキビ走ろうものなら、やっぱりF1をやっているからとか、GT-Rがあるから、などと理由付けする人もいると思います。自動車会社の人からすれば全然関係ないとしても。

私は同じような構図を、Windowsパソコンにも感じてしまうんですね。

私のパソコンは電源を入れると、まずBIOSの起動画面が出て、メモリチェックなどの文字が表示され、そのあとにWindowsが起動します。

MS-DOSの時代のIBM PCパソコンは、起動時に大量のコマンドがズラズラと流れていました。

今のメーカー製パソコンはメーカーのロゴが表示されたあと、すぐにWindowsが起動するのでしょう。

自動車メーカーに強い企業風土を感じています

自伝を読んだわけではありませんので詳しいことは分からないのですが、Microsoftの創業者ビル・ゲイツは学生の頃からプログラムばかり書いていた、という話を聞いたことがあります。

一方でAppleの創業者スティーブ・ジョブズは、高校生の頃にブルー・ボックスという、電話をかけることができる装置を売って儲けていたようです。こちらは事業家ですね。

根っからの開発者であるビル・ゲイツにとっては、パソコンとそのソフトウェアが最も能力を発揮できる舞台であって、スマートフォンやテレビゲーム機のような分野では、それが十分に発揮できないんじゃないかと思います。

もちろん、Microsoftが何かの分野に参入するときは莫大な資金を投入するでしょうから、ある程度の成功を収めることはできるのかもしれませんが。

このように考えてしまうのは、私は昔からクルマが好きで、この世界は企業風土が大きく影響していると思うからです。

私はスーパーカー世代の最初に入るかは入らないかぐらいの年齢で、小学生の頃からクルマが好きでした。

かれこれ40年以上、クルマの変遷を見守ってきたことになります。

そこで感じるのは、企業のカラーというのはあまり変わらないということ。

創業者の作った企業風土はいつまでも影響するように思います

MS-DOSはあくまでも事務用パソコンというイメージで、その代表が、ワープロソフトの一太郎や表計算ソフトのLotus 1-2-3だったように思います。

音楽をやっている人たちの間ではApple Macintoshが憧れのパソコンで、Mac OSのマウスで操作するユーザーインターフェースは、圧倒的な洗練度を感じていました。

OSは確かSystem 6と呼ばれていた時代です。

そうこうしているうちに、いつの間にか職場のゲーム開発会社にWindows 3.1パソコンが導入され、ワープロはWordに、表計算ソフトはExcelに席巻されて行きました。

もうパソコンの世界は、MicrosoftのWindowsとOffice一色という感じでした。

WindowsにMac用の有名な音楽ソフトやお絵かきソフトが移植されて行ったので、そのうちMacを使う人はほとんどいなくなるんじゃないかと思っていました。

Windows 98やWindows 2000の時代です。

しかし、そうはなりませんでした。

今でもクリエイターはMacを使っている方が多いですし、アプリ開発者や学生など、多くの方がMacを使っています。

Windows 10 Mobileの開発終了に企業風土というものを感じてしまいます

MicrosoftのWindows 10担当副社長ジョー・ベルフィオーレさんという方が、公式Twitterアカウントで、スマートフォン「Windows 10 Mobile」の新規開発をやめると発言したそうです。

まだMicrosoftからは正式に発表されていないようですが、これは事実上の開発終了宣言ということのようです。

以前はWindows Phoneと呼ばれていて、KDDIからも発売されており、iPhoneやAndroidに続く第三の勢力と目されていたのですが、やはりこの2強の牙城を崩すことはできませんでした。

Microsoftのことですから、とてつもない開発費や大量の開発部隊が投入されたはずです。どうしてこのような結果になったのでしょうか。

私は専門家ではありませんので分析などはできません。

ただ私は、どうしても企業風土というのを感じてしまうのです。

学生の頃ゲーム開発会社でアルバイトをしていたとき、パソコンでSE音をコンパイルする作業をCP/MというOS上で行っていました。

それがいつの間にか、パソコンのOSはMicrosoft社製のMS-DOSに変わっていたんですね。

人々の心の変化がどのような文化を生むのかに興味のある人は少ないのでしょうか

戦争で国が荒廃するなどして、それまでの社会秩序が崩壊したならば、人々の心に大きな影響を与えるであろうことは容易に想像できます。

その変化は社会のいろいろなところに現れるのでしょうが、やはり心への影響ということであれば、その時代の文化に色濃く反映されるのではないかと思います。

それがマニエリスムであったり、ダダイズムであったり、日本の幽玄やわび・さびであったりするのでしょう。

とても興味深いものだと思います。

日本史や世界史の時間に、そのような切り口で授業をしてくれていれば、歴史にとても興味が持てたように感じます。

とはいってみたものの、その時代の文化の特色を、人間の心を起点に読み解いて行くような授業は、中学生や高校生にはちょっと高度すぎるような気もします。

そもそも、世間が心の問題に注目しだしたのは最近のことのように思います。

実際に、国が国民のメンタルヘルスケアに力を入れ出したのはここ数年ですし。

人々の心の変化が歴史上どのような文化を生んできたか、なんて調査しているより、まずは脳科学の研究を進める方が先ですよね。

それとも私が知らないだけで、既にそのような学問はあるのでしょうか。

ダダは第一次世界大戦当時の芸術運動だということを知りませんでした

以前、若桑みどり著「マニエリスム芸術論」のことを書きました。

16世紀の宗教改革や大航海時代、人々の価値観が大きく変化していた頃の文化です。

パラダイムシフトが起きれば、人々の心に影響を与えるわけで、それが文化に反映されるのは当然だと思います。

私はマニエリスムという言葉を知りませんでしたので、知らないことがたくさんあるなと思ったり、歴史というのは面白いなと思ったり、このような文化は他にもあるのだろうなと思ったり、多くのことを考えさせられました。

そのときは、日本でも同じように文化のエポックがあったんだろうな、と思って調べてみました。

日本独自の文化といえば、やっぱり茶の湯やわび・さびのようで、当時の社会の出来事は応仁の乱にあたるようでした。

一度面白いなと感動したら、そのことを意識してしまいます。

積読していた亀山郁夫著「ロシア・アヴァンギャルド」も読み始めたことを書きましたが、それをきっかけに、ダダイズムが20世紀初め、第一次世界対戦の時代だったことを知りました。

学生の頃、たまに美術館に行ったり美術雑誌を買ったりしていたときは、アンリ・ルソーやエルンストのような、ダダやシュルレアリスムの作家のものが中心だったと記憶しています。

異界という言葉のイメージにワクワクしているだけのようです

小松和彦さんの本などの影響で、元々異界についての話が好きだったのですが、それはあくまで本の中の世界を楽しんでいたという感じです。

安田登さんの「異界を旅する能 ワキという存在」を読んでみると、能を鑑賞することで、実際に異界を体験できるようなのです。ワクワクしてしまいました。

しかし改めて異界というものを考えてみると、単純なイメージとしては、お化けがいるところとか、この世に対するあの世のことなのでしょうし、民俗学的には外国人であったり、芸能の民や山で生活する人のように、外の世界から訪れる人のことになるのでしょうか。

実生活で使われる「異界」という言葉は、民俗学や文化人類学の用語というよりも、小説などで流行語として多用されているため、語義が定まっていないということのようです。

能に限っていえば、この世に生きるワキが、あの世の住人シテを呼び出す話ですから、少なくとも、室町時代の人々が持っていたあの世のイメージを、現在の私たちが感じることができる場ではあると思います。

能の舞台というのは、観客のいるこの世と異界との間にある「境界」にあたるともいえます。

そんなことに考えを巡らせているうちに、赤坂憲雄著「境界の発生」(講談社学術文庫)という本を見つけてしまいました。

室町時代の人々の精神に触れることができるのはすごいことだと思います

能は室町時代に成立した芸能です。

人々の精神活動がその時代独特の文化を生み出します。

先日も書きましたが、一遍上人が広めた踊念仏の影響もあり、この時代の庶民が信仰したのは浄土宗なのだと思います。

能は庶民の娯楽である猿楽から発展したということですので、この踊念仏に少なからずイメージを重ねてしまいます。

一方で、観阿弥を後援した足利義満の室町幕府は禅宗を保護しています。

先日書いたように、能は禅との関係性も指摘されています。

さらにいえば、世阿弥は「風姿花伝」の中の一文「一切は、陰陽の和するところの境を・・・」にあるように、陰陽道の影響も受けているようです。

鎌倉幕府が成立して武士の時代になってから、朝廷に所属していた陰陽師は、民間陰陽師として庶民の間に浸透して行ったようですので、それは考えられることだと思います。

なかなかに複雑で面白いですね。

昨日ご紹介したワキ役の安田登さんは、「身体感覚で「論語」を読みなおす。」という本を書いていらっしゃいますし、「寺子屋」と題するワークショップも主催されています。

能は異界を旅する物語のようです

先日、室町文化の中では能が面白いという記事を書きました。

以前、室町文化について調べているとき、能について書いてある本を読んでみようと思い立って、安田登著「異界を旅する能 ワキという存在」(ちくま文庫)という本を見つけました。

能には夢幻能と現在能という種類があるようで、この本は主に夢幻能について書かれています。

登場人物はシテ役とワキ役がいて、旅人であるワキが、幽霊や精霊であるシテと出会うことから始まる異界の物語、というような説明がされています。

もう即買いです。とても面白くて、すぐに読み終わってしまいました。

アーサー王もそうですが、私は異界に迷い込む話が好きなんですね。

幽霊や精霊であるシテは普通の人には見えないのですが、それを見る特殊能力を持つのがワキという人のようです。

ワキの役割は、舞台の最初で、旅の途中のワキがシテと出会うことで、観客にシテの存在を分からせることにあるそうです。

その役割が終わると、ワキは舞台の隅で座っているだけの存在になるとのこと。

私はNHKで能が放送されているとき、数分程度それを見ることがあったのですが、お面を付けた登場人物が一人で舞っている場面ばかりだったのは、そういう理由だったのですね。