先日、岡野守也著「能と唯識」(青土社)という本を注文したことを書きましたが、昨日その本を読んでいて衝撃を受けたことがあります。
観阿弥に関わる作品といわれている「求塚(もとめづか)」の内容です。あらすじは以下。
「旅の僧に尋ねられて求塚に案内し、塚のいわれを語った女性は菟名日乙女(うないおとめ)の亡霊だった。
彼女は小竹田男(ささだおとこ)と血沼丈夫(ちんのますらお)に求愛され、水鳥を射て当てた方に決めようとするが、どちらの矢も当たる。
悩んだ乙女は水に身を投げる。
彼女の亡骸を埋めた塚で二人の男は刺し違えて死ぬ。
地獄で二人の男に責められ、鳥にもつつかれ、さらに地獄の責め苦が彼女を苦しめる。」
ひどくないですか?
菟名日乙女って勝手に愛されただけですよね。水鳥を殺したのも彼女じゃない。なのになぜ彼女だけが地獄で苦しめられなければならないのか。
観阿弥、世阿弥といえば当時のスターのはず。現代で人気者のシナリオライターや俳優がこんなシナリオを書いたら炎上してしまいそうです。
インターネットでこの作品を調べてみるといろいろな解釈があるようです。
しかし解釈はどうであれ、私が衝撃を受けたのは、この内容が大衆に普通に受け入れられていたという事実。
観阿弥といえば14世紀、室町時代の人。
650年ほど前の人たちは、現代人とはこれほどまでに違う価値観を持っていたんですね。