読書について

吉野裕子さんの本の影響で田んぼの案山子を見たら蛇の神様を意識しそうです

今日、「吉野裕子全集 第6巻」(人文書院)の「陰陽五行と童児祭祀」を読んでいました。

「第四章 制水呪術と童児」の「三 古座河内祭の上臈」に、「蛇神としての河内神は祖霊神であると同時に、年穀保証の穀物神である。」とあります。

その説明の中に、「一本足の案山子は、手足のない蛇の造型。」という記述が。

本当ですか。

以前どこかで、案山子は世の中のことを何でも知っている神様だという話を読んだことがあるのですが、蛇の神様だとは知りませんでした。

ここ数年、お米の収穫の時期に田んぼに立っている案山子を見ると、神様を意識するようになっていたのですが、今後は蛇の神様に見えてくるかもしれません。

吉野さんは蛇についての本も書かれていたことを思い出したので調べてみると、講談社学術文庫に「蛇」と「山の神」というタイトルの本がありました。

「読書メーター」というWebサイトを見てみると、どちらの本も読んだ人の感想がズラッと並んでいます。

中には論理が飛躍しすぎとか、陰陽五行や易のことをよく知らないので理解できないところがある、などの感想がちらほら。

読まない本は処分して行かなければ終活が大変なことになると思いました

最近、買った本を手に取れるところに置く場所がなくなってきました。

この二、三年くらいの間に自分のライフワークのようなものが見えてきたので、買う本のジャンルもだいたい決まっています。

それに関連した本を手元に置きたいのですが、そう広い部屋でもないのに読まない本や使わないモノが多すぎるんですね。

ライフワークのようなものを探し始めて十数年経ってしまいましたが、探す途中で色々なジャンルの本を試し買いして来ました。

それこそビジネス書や自己啓発本、小説、歴史、など何でもあり。

それに学生のときに買って影響を受けた本は捨てないで取っているので、そういうのも本棚の奥に並んでいます。

もちろん、もう読まないと簡単に判断できる本は処分してきました。

IT関連の解説書なんてその代表です。言語仕様が古くなったプログラミング言語の本とか、あまり使われなくなったCMSの本とか。

心にあまり響かなかったビジネス書や自己啓発本も同じです。

一方で、少しでも共感したりためになったと感じた本は、捨てられないんですよね。いつか再読するに違いないと思うわけです。

そして五十を半ば過ぎて、そのような本はあったかというと・・・ほとんどないんじゃないかなぁ。

陰陽五行や易を学ぶほど吉野裕子さんの本は面白くなるかもしれません

ここ数日、陰陽五行に関する本を読んでいることを書いています。

今日は吉野裕子著「陰陽五行と日本の民俗」(人文書院)を読んでいました。

今まで民俗学で謎とされていたことなどが、吉野さんによってあざやかに読み解かれて行きます。

例えば、千葉県の香取神社例祭は泥祭りと呼ばれ、利根川の氾濫を抑えるために行われているといわれています。

そのお祭りですが、池の中に入って神輿を担ぐ青年たちに向かって、子どもたちが泥を投げつけるというもの。

吉野さんは、この行為を易によって解釈されています。

青年=中男は坎(かん)卦。この卦には水の意味も含まれています。

子供=小男は艮(ごん)卦。この卦には山=土の意味も含まれています。

五行の関係でいえば土剋水(どこくすい)。つまり、土で川の氾濫を抑えるということですね。

この他にも、お祭りの時期やご神体も陰陽五行に当てはめて考察されています。

面白いですよね。

何だか推理小説を読んでいるようなスリルがあります。

しかし一方で、日頃から十干や十二支に親しんでいたり易の知識があったりしなければ、謎を読み解いて行く面白さが伝わらないんじゃないかと思いました。

自分が本当に好きなテーマの本はいつ読んでも面白いんだろうなと思います

昨日、電子書籍になっていない本は読みたいと思っても絶版になっていたら困るので、河合隼雄さんのまだ持っていない本を注文したことを書きました。

それを思い出して、今年に入って買っていた河合さん「影の現象学」(講談社学術文庫)を少しだけと思って読み始めたら面白くなって、今日届いた「源氏物語と日本人」(岩波現代文庫)も気になってしまい、結局二冊合わせて100ページくらい読んでしまいました。

小松和彦さんや若桑みどりさんとともに、好きな人なので絶版になる前に集めようと思ったくらいですから、こうなることは分かっていました。

この方たちは、私がよくブログに書いている唯識仏教や易経も含め、無意識や象徴といったキーワードでつながっています。

多分このテーマは私のライフワークなんじゃないかと思います。

小松さんの「異人論」(ちくま学芸文庫)をまだ読んでいなかったので先日買ったのですが、パラパラとページをめくっていると、「五 山姥の深層心理学」と題して次のような記述がありました。

絶版になっている読みたい本のことがずっと気になっていました

先日ブログで、本屋に行きすぎないことと本を買いすぎないことを決めた、ということを書きました。

「しないことリスト」というほど厳密ではないのですが、自分の中で決めている「できるだけやらないこと」に追加したのです。

すでに読みたい本がたくさんあるのに、これ以上増え続けたら、読みたい本を読めずに寿命が来てしまいます。

とはいうものの、その読みたい本というのは小松和彦さんや河合隼雄さん、若桑みどりさんなど私の好きな人の本であって、この方たちの代表作を全て揃えているというわけではありません。

河合隼雄さんなんて、このあいだ岩波現代文庫に「〈物語と日本人の心〉コレクション」という全六冊シリーズがあるのを知って、さっそく一巻目の「神話と日本人の心」という本を注文したところです。

すぐに読む時間はないのですが、なぜ購入したかというと電子書籍になっていないからなのです。

例えば、昔購入した小松和彦さんの「悪霊論」(ちくま学芸文庫)は面白いなぁと思うのですが、今では絶版になっています。

Kindle版のように電子書籍になっていれば安心なのですが、それがない場合いつ絶版になるか分かりません。

しないことリストに本屋に行き過ぎないことと本を買いすぎないことを追加しました

今日思うところがあって、本屋に行きすぎないことと本を買いすぎないことを決めました。

禁止するわけではないので、しないことリストとはいえないですよね。

それに、私はしないことリストというものを厳密に作っているわけでもありません。数日前にブログに書いた「これからやらないこと」を決めただけです。

子供の頃はプロ野球中継を最後まで見ていました。

その他にプロレス中継、アニメ、ドラマ、映画、バラエティ番組・・・。これじゃ宿題する時間もありません。

大きくなるにつれて、そこまでテレビにかぶりつくことはなくなりましたが、見なくなった時間を他のことに使うようになっただけでした。

そこであるとき決めたのが「これからやらないこと」です。

そこに、冒頭の本屋に行くのと本を買うのを控えるを追加しました。

というのも、最近本屋さんに行っても、以前ほど「これは読みたい」という本がなくなったように感じるのです。

近年ますます新刊がたくさん出ているように感じるので、相対的にそう思うのでしょうか。

それに読みたくてストックしている本や、数回読み返したい本が百冊くらいあります。

古本屋さんめぐりをする人ってこんな感じなのかなと想像してしまいました

先日三宅陽一郎さんというIT業界にいらっしゃる方が、唯識仏教をAIに活用しようとされていることを書きました。

今まで唯識に興味がある人に会ったことはありませんし、ましてやIT業界で研究されている方がいらっしゃるとは思ってもいなかったので、嬉しくなってさらに勉強してみようと思い、本を探していました。

しかし、入門書の次のレベルのようなものになると絶版本が目立つようです。

例えば唯識思想を大成した世親が著した「唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)」の解説書は太田久紀著「唯識三十頌要講」(中山書房仏書林)、竹村牧男著「唯識の探究―「唯識三十頌」を読む」(春秋社)などがありますが、どちらも在庫切れになっています。

その「唯識三十頌」を護法が注釈し、玄奘が漢訳した「成唯識論(じょうゆいしきろん)」の解説書で、竹村牧男著「「成唯識論」を読む」(春秋社)は販売されているので私は購入しましたが、太田久紀著「成唯識論要講」(中山書房仏書林)は在庫なし、同じ著者の「「唯識」の読み方」(大法輪閣)はPOD(プリント・オン・デマンド)として販売されています。私はを古書で手に入れました。

大型書店に行っても本を衝動買いしなくなった自分にちょっと驚いています

今日久しぶりに天神の大型書店に行って本を物色してきました。

時間がなかったので30分ぐらいしか居られませんでしたが、相変わらず単行本も新書も面白そうな新刊がたくさん並んでいました。

私に興味があるからでしょうが、「ビジネスにアートの視点を」的な内容のものや、「哲学を活用しよう」的な内容のものが増えているように感じました。

数年前までは「あれも読みたいこれも読みたい」と思ってしまって、途中で放置してしまうと分かっているのによく購入していたのですが、最近はそのようなことはなくなりました。

本は買っているのですが、買う本のテーマがある程度決まってきたので、そのテーマ以外の本はあまり買わなくなったのです。

それに先日ブログに書きましたが、「愛読書」というか「座右の書」のようなものができたので、それに目を通していたら他の本を読む時間がないというのもあります。

あれもこれもと闇雲に購入していたときは、読む本のテーマが決まっていたり愛読書を持っていたりする人を羨ましいなと思っていました。

でも自分がある程度そうなってみて分かるのは、そうなったのは単に自分が興味を持っていることを再確認したり、もう年なので残りの人生そんなにたくさん本は読めないと悟ったりしただけです。

「愛読書」というものは50代にもなれば見つかるのかもしれません

ずいぶん前ですが、このブログで自分の好きなテーマの古典を少しずつ読んで行きたいと思ったことを書きました。

そのとき書いたのは、雑誌やインターネットでオススメの本を見るとつい買ってしまって、読んではみるのですが、そんなに面白いと思える本には出会ったことはないということ。

本を読む速度は速くないので、このような読み方をしていたら人がすすめる本だけで一生が終わってしまいます。

というわけで「好きなテーマの古典を・・・」というお話だったのです。

「愛読書」とか「座右の書」などといえる本があれば、そんなことを思う必要はないのですが、自分はそんな本には巡り会えないだろうとどこかであきらめていたんですね。

ところが一年ほど前から、寝る前にほとんど毎日「易経」の解説書や、仏教の深層心理学といわれている唯識の解説書を読んでいます。

易経は本田濟著「易」(朝日選書)の他、計三冊、唯識は太田久紀著「凡夫が凡夫に呼びかける唯識」(大法輪閣)という本です。

特に唯識の本はこれまでに何冊か読んではみたものの、どれも難しくてあまり理解できなかったのですが、この本は唯識の考え方を普段の生活の中から例を挙げて説明しているのでよく理解できます。

易は「ああでもない、こうでもない」といくらでも解釈を楽しめそうです

昨日は易は64卦384爻という膨大な数の物語があるため、それを覚えるとなるととても長い時間がかかりそうだ、というお話をしました。

さらに易には、物語の他にいろいろな特記事項があるようなのです。

例えば陽の横棒3本が上の卦、陰の横棒3本が下の卦で構成されている「天地否(てんちひ)」は、大往小来=徳の優れた人物(大)は去り(往)悪人(小)が支配する(来)という意味があるのですが、本田濟著「易」(朝日選書)には二通りの解釈があるとしています。

その一つに、「風山漸(ふうざんぜん)」という卦の、三番目の陰の横棒と四番目の陽の横棒が入れ替わった、つまり大(陽爻のこと)往き小(陰爻のこと)来るからきた、という説を挙げています。

これは卦変という考え方のようですが、このような考え方もありだとすれば、他の卦にもたくさんパターンがありそうです。

もう一つ特記事項を挙げるとすれば、例えば先ほどの「天地否」の逆、陰の横棒3本が上の卦、陽の横棒3本が下の卦で構成されている「天地泰(てんちたい)」という卦があります。

その三爻目の説明(爻辞)に「食において福あり」という文章があります。