読書について

「よく易をおさむる者は占わず」という境地には一生なれないと思います

易の面白さは自分で自由に解釈できるところにあると思っています。

自由といっても、基本的な意味は決まっています。

陰と陽の3本の棒の組み合わせを卦(か)といい、3本全部「陽」であれば「乾(けん)」、3本全部「陰」であれば「坤(こん)」、というように全部で8パターンあります。

8パターンある卦の一つ一つに東西南北や父母長男長女、春夏秋冬のような意味が割り当てられています。

さらにその8パターンを上下に組み合わせて、8×8パターンの計64卦が易全体の構成となります。

例えば「水」の意味の「坎(かん)」卦と「雷」の意味の「震(しん)」卦が組み合わさると「水雷屯(すいらいちゅん)」といい、それ固有の物語があるんですね。

そしてその卦の一本一本の陰陽の棒を「爻(こう)」といって、計6本それぞれに身分であったりの意味があり、それ固有の物語があるんです。

その物語を、最初にいったように自分の占うことに当てはめて解釈するんですね。

占う人は、64種類の卦の物語や384種類の爻(64卦×6爻=384爻)の物語を全部覚えなくてはならないので、こりゃ大変だなと思います。

易経の384爻について詳しく、かつ優しく解説されている本はあまりないようです

箕輪隆素著「艱難を裂く、決断の書「易経」」(幻冬舎)という本を読んでいます。

易の本を紹介されている方のブログを見ていたら、この本を推薦されていたので購入してみました。

以前、本田濟著「易」(朝日選書)をご紹介しましたが、64卦384爻の解説を二回ほど読んでますます興味がわいてきましたので、もう少し違う角度から、かつもう少し初心者に分かりやすい本はないか探していたところでした。

まだ半分くらいしか読んでいませんが、易についてのエピソードがものすごく詳しく書かれていて、何よりほとんどの漢字にルビが振ってあります。

さらに、企業出版という形式を採られている幻冬舎メディアコンサルティングさんが発行されているせいか、560ページを超える大著なのに1,800円+税というお買い得さです。

私のような易の初心者にはとてもお薦めです。

ただ注意していただきたいのは、私は初心者ですので内容についての評価はできません。

著者は長年公立高校に務められた方で、易経の本も書かれている濱久雄さんの「易経講座」の生徒さんでもいらっしゃるので、内容はしっかりしたものだと思います。

外山さんのコラムを読んで、考えていないのは本に限ったことじゃないと分かりました

今までこのブログで、私は昔から一つのことに集中できず、興味の赴くままにあっちフラフラこっちフラフラしてしまう悪い癖があることを何度も書いてきました。

昨日インターネットで外山滋比古さんの「読書が役立つのは30代まで」というコラムを読んで、最近ライプニッツの生きた時代背景とか神秘思想への関わりのような本を面白がっていたことに、「ああ、また悪い癖が出た」と反省しました。

肝心のライプニッツの哲学の本を読み返すこともせず、自分の考えを深めることもしていませんでした。

外山さんのご指摘通り、人が書いている知識ばかり取り入れて安心している。自分がない。

興味のあるものの周辺ばかりに手を出して、その中心(本体)をおろそかにしてしまうんですね。楽をしているんだと思います。

これも以前書いたことですが、ある会社にIT関連業務全般のお手伝いで出向していたとき、「あなたの専門は何ですか?」と聞かれて答えられなかったという話をしました。

パソコンを触るのは好きなので、とりあえず広く浅く知識は吸収する。便利屋さんでしかないわけです。

これがプログラマーやシステムエンジニアとしてその会社に出向しているのであれば、即返答できたと思いますし、それ以前にその方はそんな質問をする必要もなかったと思います。

外山滋比古さんの「読書が役立つのは30代まで」というご指摘に耳が痛いです

ここ数日、ダ・ヴィンチ、ニュートン、ライプニッツのような自然科学の礎を築いた人たちと宗教との関係が書かれた本を読んで、記事にしていました。

このような関係に興味を持ったのは、ライプニッツを読むようになったのがきっかけですが、特に三田誠広さんの本には多くの思想や団体が登場して、ますます興味が増しました。

しかし当事者たちがこのような思想や団体に関わっていたのは、純粋に科学原理を追求する目的のためであって、オカルティックなものを信奉したということではなさそうです。

本に紹介されているいくつかの思想をたどって行けば、私が興味を持っている東洋の思想に繋がるようなので、面白いと思ったんですね。

以前、ライプニッツのモナド論と華厳経の関連性を指摘した論文のことを書きましたが、その例でいえば新プラトン主義の哲学者プロティノスを介して、華厳経とライプニッツが繋がっている、というようなことです。

何だか興味の赴くままに本を探して買っていたらきりがないな・・・と思ってインターネットを見ていたら、PRESIDENT Onlineに外山滋比古さんの「94歳が断言"読書が役立つのは30代まで"」というコラムがありました。

外山さんといえは「思考の整理学」(ちくま文庫)。私もずいぶん前に読みました。

人の興味というのは基本的には変わらないのかもしれません

意思の力でストイックに仕事だけを続けていても、いつかは心がそれについて行けなくなるようです。

私の場合は、ある日電車に乗っていて、パニック障害という発作が起きてそのことを理解しました。

仕事をセーブして療養しているときに、心もケアしなければということに気が付いて、自分が昔好きだったことを思い出そうとしたことを昨日書きました。

「ロシア・アヴァンギャルド」は、ストイックな生活を始める前に買ったのか、療養中に買ったのか忘れましたが、「音楽のヨーロッパ史」を買ったのは療養中でした。

音楽は子供の頃から好きでしたが、大学生から社会人にかけて、ワールドミュージックや古楽など、ポピュラーミュージック以外にも興味を持っていたことを思い出したんですね。

以前、「古代ギリシャの音楽」というCDが少し話題になったことがあるのですが、そのような音楽に興味がある人には、「音楽のヨーロッパ史」は好奇心を満たしてくれると思います。

美術館に行ったり、美術の本をたまに買ったりしだしたのは、大学生の頃からなのですが、知識は増やしたいと思っていましたので、「ロシア・アヴァンギャルド」を買ったのだと思います。

何年経っても以前好きだったことに触れると心がホッとします

亀山郁夫著「ロシア・アヴァンギャルド」は1996年に出版されており、上尾信也著「音楽のヨーロッパ史」は2000年に、佐藤晃子著「日本の絵画50」は2006年に、それぞれ出版されています。

この順番に購入したのは記憶しています。

出版された時期のことを思い出してみると、「ロシア・アヴァンギャルド」の頃は、今まで何度か書きましたが、私は体を壊してしまって、「日本の絵画50」の頃に何とか回復していました。

大学生の頃や社会人になってからも、せっかく東京にいるのだからと、ちょくちょく美術展に出かけていました。

その頃出版されていた、例えば「週間グレートアーティスト」(同朋舎出版)のような雑誌も、気に入った号は集めていました。

しかし30歳過ぎに独立してからは、とにかく仕事を頑張らねば・・・とそのような行為を封印してしまったんですね。

そんな生活をしばらく続けた結果、心身が病んでしまいました。

まともに仕事なんてできませんので、休養するしかありません。

そんなときに気付いたんですね。

ストイックであり続けようとしても無理。好きなことでたまに心に潤いを与えなきゃ長くは続かない。昔好きだったことは何だろう。

積読本になってしまうものはいろいろな理由があるのだと思います

先日、学生のときに買ったSF小説を、本棚から引っ張り出してきて読んでみたことを書きました。

私は積読はそれほどしない方だと思うのですが、それでも2、30冊くらいは積読本があります。

SF小説を引っ張り出したときから、それらの本のことが気になっていたので、改めてそのうちの三冊ほど手に取ってみました。

ジャンルは美術関連です。

SF小説のように、「幼年期の終わり」や「火星年代記」と同じ感動を味わいたくて、衝動的に買ってしまったというのではなく、もともと美術には興味があって、学生の頃から気が向いたら買っていたんですね。

SF小説の場合は、他に読みたいジャンルの本が増えてきて、そのままになってしまったのですが、これらの本はなぜ積読になってしまったのか、少し考えてみることにしました。

一冊目は亀山郁夫著「ロシア・アヴァンギャルド」(岩波新書)。20世紀初頭、ロシア十月革命以降に起こった芸術革命を概観する内容です。

二冊目は上尾信也著「音楽のヨーロッパ史」(講談社現代新書)。政治的、軍事的、宗教的目的のために音や音楽がどのように利用され、時代を動かしたのかを探る内容。

SF小説は書かれた当時の世界観を楽しめる人じゃないと手を出しにくいと思います

ここ数日、SF小説を読んでいる人はあまりいないんじゃないか、というお話をしてきました。

クラークの「幼年期の終わり」やブラッドベリの「火星年代記」は有名な古典なので、読んだ人は多いと思いますが、私のように衝撃を受けるほどではなかったので、他のSF作品を手に取るまでには到らなかったのかもしれません。

私の場合は同じような体験をしたくて、当時本屋さんに行っては、SFコーナーに並んでいる興味をそそられるキャッチコピーが載っている本を買っていたんだと思います。

他のSF小説で同じような衝撃を受け続けていたら、実際にはそうならなかったのですが、SFオタクといわれる方のようになっていたかもしれません。

しかし考えてみると、江戸時代とまではいわなくても、昭和の初め、まだ夜中はいたるところに暗闇が残っていた頃、お化けの存在は身近だったようですし、人類がまだ宇宙に飛び立っていなかった頃は、宇宙人も逆にリアリティをもってイメージされていたんじゃないかと思います。

私たちが子供の頃、ロボットといえば鉄人28号のような姿を想像していましたが、石黒浩さんの作るようなアンドロイドを見慣れている今の子供たちがロボットを想像するとすれば、私たちとは全然違うものになると思います。

映画やアニメのカッコイイ世界じゃないと人は興味を示さないのかもしれません

なぜSF小説を読む人が少ないのか、嫌いな理由でもあるのか、インターネットで検索してみたのですが、特に目立った理由はないように感じました。

そもそも関心がないのでしょうか。

しかし、昔から「スタートレック」などは熱狂的なファンがいますよね。

「スター・ウォーズ」も新作が発表されるたびに大変な話題になります。

日本でも、古くは「宇宙戦艦ヤマト」や「機動戦士ガンダム」など、今でも大くのファンがいます。

それらには宇宙人もロボットも登場しますので、SF小説の世界観そのものに関心がないというわけではなさそうです。

実際に「重力の使命」を読んでみると、ムカデのような姿をしたメスクリン人が人間と英語で会話しています。

私は他のジャンルの小説と同じように、すぐにその世界に入り込んで、面白く読んでいます。

ムカデの姿なので、人間が手を使ってやるのと同じ行為をするときはハサミを使うのですが、それが文章で記述してあると、多くの人はそのイメージについて行けない、面白さを感じない、ということなのでしょうか。

考えてみれば、ガンダムのモビルスーツのガンプラなんてカッコイイですよね。

読みたい本がたくさんあってSF小説の存在を忘れていました

数年前に、ジュール・ヴェルヌの「海底二万里」のような古典は読みましたが、宇宙人が出てくるようなバリバリのSFは読んでいません。

別に嫌いになったわけではないので、なぜそうなったのか不思議に思い、本棚から二冊引っ張り出して読み始めています。

一冊目はハル・クレメントの「重力の使命」(ハヤカワ文庫)、二冊目はケイト・ウイルヘルムの「鳥の歌いまは絶え」(サンリオSF文庫)です。

前者は裏表紙の解説に「ハードSFの金字塔」と書いてあり、後者は表紙に「ヒューゴー賞・ジュピター賞受賞」と書いてあります。

当時はこういう宣伝文句に反応して買っていたんですね。

それなのになぜ読まなくなったかというと、社会人になってから、他に読みたい本というか、読んどいた方がよさそうな本に目が移って行ったからなんじゃないか、と自分では思っています。

新聞や雑誌にはベストセラーの宣伝があったり、新刊の書評やお薦め本コーナーなどがありますが、SFは読む人が少ないのか、そのようなところではあまり見かけません。

数年に一冊は、ピケティの「21世紀の資本」だったり「嫌われる勇気」だったり、知っていて当然のような大ベストセラーが生まれます。

まずそのような本に注目が集まりますよね。