世代に関する話

健康に年を取るのは大事なことだと感じます

先週の金曜日に、ASK アクティブシニア交流会に参加しました。

今回は「人生90年時代へ 時代に合った社会の仕組みに変える」と題して、福岡市保健福祉局高齢社会部高齢社会政策課の方が講演されました。

以下ASKさんホームページから内容紹介の抜粋です。

「人生90年が普通になろうかという現在、福岡市における高齢者の現状と市の対応政策について学びましょう。

変わりゆく福岡市の姿、高齢化と単身化、全国平均を大きく下回る女性の健康寿命、自立度の変化パターン、男は生活習慣病 女はロコモに注意、外出頻度と認知症、高齢者の生き甲斐、自宅介護、孤立死予防、90年時代に合った社会仕組みづくり、etc・・・」

参加者は講演会には35名以上、そのあとの懇親会には20名とのことです。

会員の方の平均年齢は70代だと思うのですが、参加していつも感じるのはみなさんお元気なこと。

自己紹介で85歳という方もおり、この方は懇親会にも参加されていました。

参加者の中に、ゴルフやマラソンなどスポーツ好きの70代の方がいらっしゃったのですが、この方など懇親会で強いウィスキーを何杯もおかわりされていました。

時代の変化が言葉の意味も変えてしまうようです

私は今まで、バス通りイコール大きな道路だと思っていました。

しかし、いざバスに乗ってみると、環状線を逸れて住宅地の小さな道に入ったりする。

思い出してみると、ASK西村代表のご自宅兼事務所に行くときは、地下鉄姪浜駅から、大きな道路だけでなく、小さな道をあっちに入ったりこっちに入ったりします。

バス会社にしたら、採算を取る必要がありますので当然でしょう。

私が住んでいる福岡市早良区は、北は海に面した福岡タワーから南は標高約1000mの脊振山に至る、縦長の形をしています。

その区を縦断するように国道が走っています。

私が中学生、高校生の頃は、ほとんどのバスが、海に突き当たった場所にある西新という街から、右に曲がって市内一の繁華街、天神に向かっていました。

今でも西新商店街には、おばちゃんたちが野菜などを売っている有名なリヤカー部隊が並んでいます。

そこを利用するお客さんの多くが国道を通るバスに乗って来る、という話を新聞で読んだ記憶があります。

ところが、その国道を途中で横切る形で、天神に向かって地下鉄が走ったものですから、地下鉄開業当時は、リヤカー部隊の利用客が減るのではないかと危惧されたようです。

バス通りという言葉は広い道路を表す時代ではないんですね

先日、免許を更新する時期が来ていたので、打ち合わせで外出するついでに、自動車運転免許試験場に行ってきました。

私は運転免許を、30年以上前に、そこに隣接している自動車学校で取りました。

当時は自転車で30分ぐらいかけて通っていて、辺鄙なところにあるなと思っていました。

地下鉄七隈線開業と同じくらいの時期に、自動車運転免許試験場のまん前に福岡外環状道路が開通したので、車で行くにはとても便利になりました。

打ち合わせは天神でしたので、近くに免許更新センターがあるのですが、その日はたまたまお休みだったのです。

最寄の駅から乗る地下鉄は、外環状道路の下を走っているのですが、福岡大学を起点に、地下鉄は天神方面に、外環状道路は福岡空港の南の端に向かって、それぞれ分かれます。

福大前駅から、外環状道路を走るバスはどんどん出ているはず、と大船に乗ったつもりで家を出ました。

いざ福大前駅に着いて地上に出て、バス停で時刻表を見ると、何と1時間に2本。次のバスは30分後です。

バス停は外環状道路に面していないので、外環状道路に出たらバスもたくさん走っているだろう、と思いつきました。

地図上ではわずかな距離です。

「好きなことが継続できること」だと分かるのがおじさんなんだと思います

自分からやりたいと思ったプラモデル作りでさえ、最後までやり遂げることができない。

子供心にも結構落ち込みました。

そんなある日、同級生の家に遊びに行くと、作りかけた状態で放置されたプラモデルを発見する。

バイクのプラモデル、確かホンダのナナハンだったように記憶しています。

それを見たとき、ああ、もしかしたら、プラモデルを最後まで作ることのできる子供は、あまりいないんじゃないかと思ったものです。

しかし、あれだけワクワクしていたのに、一度も完成させることができなかった体験は、継続ということに自信をなくした、大きな原因の一つだと思います。

いつの間にか、自分に飽きっぽい性格だというレッテルを貼ってしまいました。

一つのことに情熱を燃やして、大きなことを成し遂げるアスリートやアーティストを横目に見ながら、歳を取って行くわけですね。

それから30代で独立したり、ハードワークを続けたり、体を壊して療養したりを経て、40歳くらいのときに自分を見つめなおすわけです。

以前にも書きましたが、学生のとき退屈で途中で投げ出した夏目漱石の「吾輩は猫である」が、妙に面白くて最後まで読めてしまう。

プラモデル作りを投げ出したことが自信を失ったきっかけの一つでしょうか

そんな中で思い出すのは、プラモデルを作りたいと思って、何度か買ってもらったことです。

これは珍しく、自分からやりたいと思ったことでした。

確か、F1カーを含むレーシングカーだったように記憶しています。

雑誌などですばらしい完成度の作品を見ていたので、自分も同じように作ることができると思い込んだのですね。

それにタイトルも内容も覚えていませんが、子供の頃テレビで見た洋画で、今でも覚えているシーンがあります。

お爺さんが海で流木を拾ってくる。

葉巻をくゆらせながら、蚤などの道具を使って、流木を立派なミニチュアの帆船に仕上げる。

何てすばらしい。自分も同じことをやってみたい。

それと同じような衝動が、プラモデルを欲しがる気持ちにもあったのだと思います。

山のような数のパーツを前にして、これから組み立てる興奮を抑え切れませんでした。

しかし、そんな情熱を持って始めたプラモデル作りも、ついぞ一度も完成させることはできませんでした。

同じような形のパーツを、設計図を見ながら一つ一つ接着剤でくっ付けて行く。ただただ地味な作業の連続です。

たまに接着剤がドバッと出すぎる。どんどん見栄えが悪くなる。

おじさんになったら継続ということができるようになるのかもしれません

ブログが一年続いたので、おじさんになったら少しは継続ということができるようになるのかな、と不思議な気持ちになりました。

思い返してみると、子供の頃から継続なんて全くできない人生だったように思います。

物心付いたときから親がいろいろと習い事をさせてくれました。

うちだけが特別なのではなく、高度成長期の新興住宅地に住んでいるような家庭は、○○ちゃんもやっているから、という軽いノリで子供にやらせていたんじゃないでしょうか。

最初の習い事の記憶は絵画教室です。

多分保育園に行っていた頃だと思うのですが、周りはお兄さんお姉さんばかり。

先生から「何描いてるの?」と聞かれて「怪獣」と答えた記憶があります。

それ以降もたくさん経験しました。

ヤマハ音楽教室のオルガンだったり、英会話だったり、習字だったり。

小学生までは、自分でやりたいと言った記憶はなく、同級生や近所の子供たちと一緒に行かされていたのです。

今考えてみると、家族に好きな人いないでしょう?というような家にまで、アップライトピアノが置かれていました。

私もそのような例に漏れず、どれもものにならずに辞めました。

○○世代と職業

私は俗に言う新人類世代です。

検索してみると、新人類世代でも初期、中期、末期に分類する見方もあるようですね。

それで行くと、私は「中期」にあたり、社会人になって程なくしてバブルが崩壊した、という世代だそうです。

私が高校生のときにYMOを初めとするテクノミュージックが流行って、シンセサイザーが脚光を浴び始めました。

大学生になると、MSXという規格のパソコンが発表されて、YAMAHAからシンセサイザーの音が出たり作曲ができたりするソフトが発売されたので、私もアルバイトしたお金をつぎ込んで購入し、夢中になりました。

しばらくして、バンドをやっていた仲間からあるアルバイトを紹介されたのですが、それが当時学生に人気だったNEC PC-8801や富士通FM-7というパソコンのゲーム用に音を作るという仕事だったんですね。

たまたま、私がMSXで楽器の音色を作っていた音源チップと、それらのパソコンの音源チップがほとんど同じだったんです。

今思い出しても、そんな音源チップ用の音色を作って喜んでいた人間は、自分の周りにはいませんでした。

そのアルバイトをきっかけに、その会社に就職して、今の仕事に繋がっているわけです。