持って生まれたもの

便利なものはどんな時代にもあり、それを活用する人は年齢に関係なくいたのでしょう

ゴールデンウィークに帰省した同級生と飲んでいて、別の店に行こうという話になってスマホで調べました。

このようなときは当然のようにスマホを使っていますが、スマホが一般的になる十数年前まではこのような光景はなかったんですよね。

今回実際に使ったのは、スマホというよりインターネットですが。

そんなことを考えていたら、インターネットがない時代のことを思い出しました。

その時代で先ほどの状況ではグルメガイドを見るのかな。

普段は本なんか持ち歩かないので、当時だったら店を出て記憶を頼りに別の店を探し始めたと思います。

本を持って行くのは旅行ですね。

以前は旅行ガイドブックを持って行って、その土地の名所や名物を調べていました。

ずいぶん昔に両親と旅行に行ったときに、ガイドブックを持って行ったことがあるのですが、両親はそんな本があることに感心していました。

「地球の歩き方」や「るるぶ」のような本が書店に氾濫しだしたのは1980年代だったような気がしますので、両親が若い頃はそのようなガイドブックを持って旅行するような習慣はなかったのかもしれません。

とはいうものの、若い頃に存在しなかったとしても、買おうと思えば誰でも手に入れることはできます。

夜の方が自分の世界を広げる活動をするのに向いているのかもしれません

昨日は、中学生の頃にオールナイトニッポンの第二部を聞いていたとき、とてもワクワクしたことを書きました。

今にして思えば、昼間は家庭や学校に緊張感というか、ストレスを感じていたんだろうと思います。

夜が更ければ更けただけ、開放感のようなものを感じていたんじゃないでしょうか。

「草木も寝る丑三つ時」というくらいですから、昔は人が寝静まった時刻だったのでしょう。

インターネットで調べてみると、オールナイトニッポンの第二部が始まる午前三時は丑寅の時刻。

丑寅といえば鬼門の方角なので、ワクワクというより、昼間の世界とは違う気配のようなものを感じていたのかもしれません。

以前、五木寛之さんの何の本かは忘れたのですが、ある島の先住民は一日という考え方をしないで、一つの昼と一つの夜という数え方をする。人間が活動する時間帯と精霊などが活動する時間帯を分けるという世界観はとても豊かだと思う、というようなことを書かれていました。

それを読んで、いい話だなと感動したことを覚えています。

高校生までは、夜更かしをしても遅刻しない程度に早く起きて学校に行っていました。

朝型に変えられる人はもともと朝型の資質があったんじゃないかと思います

ゴールデンウィークの影響もあってか、最近夜寝るのが遅くなっています。

昨日も午前三時くらいでした。

小学生の低学年の頃から夜遅くまで起きていて、学校でアクビばかりしていたので、先生から「何時に寝てるの?」と注意されていた記憶があります。

そんなことを思い出したのは、たまたまインターネットを見ていたら、齋藤孝さんが自著「夜型人間のための知的生産術」(ポプラ新書)を紹介されている記事を読んだからです。

去年出版された本で、私も書店で見かけたとき、齋藤孝さんも夜型なんだとちょっとうれしくなりました。

かなり前から、世の中の風潮は、生産性を高めるために朝型になることを勧める本や記事ばかりになって、夜型の私は肩身の狭い思いをしていました。

記事は東洋経済ONLINEの「「夜型人間」だから蓄えられる種類の知識ある」というインタビューで、夜のよさを次のように表現されています。

「効率よく手早く段取りよく進めるのが昼間の仕事で、夜は効率は求めず自分と向き合い、考えを深め、教養を身に付ける。じっくり自分の世界に浸れるのが夜のよさです。」

私が教養を身に付けられているかどうか分かりませんが、自分の世界に浸れるというのはその通りだと思います。

ライプニッツというキーワードに興味のあるテーマがすべて含まれていました

先日、二進法を確立したライプニッツが、易経の先天図の中に二進法の計算術があるのを見出したという話に興味を持って、「知の教科書 ライプニッツ」という本を買ったことを書きました。

その本に、微小表象という、のちの時代に無意識と呼ばれることになる概念も考察していたことが書いてあり驚いた、とも書きました。

がぜんライプニッツに興味がわいてきたので、清水富雄、他訳「モナドロジー・形而上学叙説」(中公クラシックス)という本を注文してしまいました。

到着するまで数日かかるので、インターネットで論文などがないか少し調べてみたところ、私の興味のあるテーマで五つほど見つかりました。

(1)『華厳経』と『モナドロジー』 ― 村上俊江におけるライプニッツ受容 ― 酒井潔

(2)ライプニッツと仏教と西田 ― 窓のあるモナドロジー ― 大西光弘

(3)書評 「共時性:非因果的連関の原理」 C.G.ユング 大垣俊一

 ユングの共時性に通ずる概念としてライプニッツの予定調和を挙げています。

(4)ライプニッツからの感性論=美学 ― 微小表象論の射程 ― 小田部胤久(東京大学)

(5)コウルリッジの芸術論の形成 ― 極理論と無意識概念の系譜 ― 高山信雄

スポーツに関しては生まれた地域も影響が大きいかもしれません

昨日は自分が冷え性だという話などをしました。

数年前からホカロンを腰に貼り始めて、今では手放せなくなったのですが、最近では足の指がしもやけになりにくいのを発見して、股引の上から両足のふくらはぎにも貼っています。

以前ブログにも書きましたが、子供の頃はアレルギー性鼻炎がひどくて、冬は一日中鼻水を垂らしていました。

今考えてみると、冬はいろいろなことにパフォーマンスが落ちていたかもしれません。

だから冬にある試験はダメだったんですね。夏の試験もダメでしたが。

自分が冬に弱いので、いつもこの時期に感じることなんですが、豪雪地帯に住む方は本当に大変だと思います。

雪下ろしなどとんでもなく重労働だと思いますし、野球やサッカーなどのグランドを使う競技の方も、練習ができなくて困ることが多いと思います。

その一方でウィンタースポーツ、例えばテレビでスキージャンプの選手の活躍を見ていると、雪の降る地方に生まれてよかっただろうなと感じます。

それを考えると、水泳のようなマリンスポーツの選手は、泳げる期間が長い南の地方で生まれた方が有利なような気がします。

私は冷え性なので生まれた日の気候に影響を受けているようです

先日より、寒い日が続いたことを皮切りに四季のお話をしてきました。

寒い日のことを話題にしたのは、私は寒い日が苦手なところもあるからです。

そんな日が続くと末端冷え性なので足の指がしもやけになります。

ここ数年、食器を洗うときなどはゴム手袋をしているのですが、それでも手にあかぎれができてしまいます。

それどころか、最近は足にもあかぎれができるようになりました。手と違って一日中靴下を履いているのに。

昔はそんなことはなかったので、こういうところにも老化の影響が出ているのかもしれません。

生まれたときの気候は、その人の肌の特徴に影響するというような話を聞いたことがあります。

中国の五行でも、生まれた月はその人の性格に影響を与えることになっているようですから、昔から人は実感していることなのかもしれません。

私が生まれた日は真夏で、とても暑かったようです。

昔なので、部屋に冷房のない病院だったらしく、母は暑いのですぐに退院して家に戻ったそうです。

生まれたとき、この世界は暑いところだと体が覚えてしまったために、真冬の寒さに対応しきれないのかもしれません。

日頃接することもない人たちの感情に思いを馳せてみたいのかもしれません

先日より「プロ野球戦力外通告 クビを宣告された男達」という番組を見て思ったことをお話しています。

ドラフトで指名されたり、プロでレギュラーだったりした人は、地元では飛び抜けた存在だったのだろうと思います。

地元を離れて高校の強豪校に進んだとしても、やはりそれは変わらなかったんじゃないでしょうか。

そういう人はやっぱり上の世界、プロの世界にいつも目が向いているように思います。

大リーグに挑戦することになった大谷翔平選手とか、日本ハムに入団した清宮幸太郎選手とか、特別な才能を持った若い選手を見ていると、そう感じてしまいます。

人に与えられた時間は平等です。

例えば私などは、地元の環境の中で、社会人に近い年齢まで「自分は彼より野球が上手い」とか「彼には敵わない」とか一喜一憂して、興味がフットサルに移ったりするわけです。

一方で野球の才能がある人は、その同じ時間を同世代どうし共通の目標を持った環境の中で、上の世界に目を向けた生活が続くのだと思います。

そのような生活を何年も続けるうちに、両者の生き方はまったく違ってしまって、日常のちょっとした判断でも大きく変わってしまうんじゃないでしょうか。

私は前者であって、番組で紹介されていた方たちは後者です。

才能のある子供たちはそれに見合う環境に移って生活することもあるでしょう

昨日は「プロ野球戦力外通告 クビを宣告された男達」という番組を見た感想を書きました。

このような番組は今まで何度か見た記憶がありますが、見るたびに考え込んでしまいます。

プロ野球のドラフトで指名されるような人たちは、子供の頃から飛び抜けた存在だったのでしょうから、私とは見える景色が違っていたんじゃないかと思います。

私は小学生の頃はソフトボール、中学生の頃は野球をやっていましたが、センスがなくて補欠でした。

そんな私でさえ、高校の授業でソフトボールをやったとき、野球の経験がない同級生がボールをキャッチできないのを見て、「何で取れないんだろう?」と不思議に思ったものです。

今から思えば、経験がないのでできないのは当たり前ですよね。

しかしドラフトで指名されるような人たちは、私がこのようなことを感じている次元とはレベルが違うと思います。

どのようなことを感じているのか想像すらできません。

以前、武満徹さんの対談集を読んだときに、一流のクラシック音楽の演奏家の話題で驚いた記憶があります。

生まれつきとんでもなく上手い演奏家が、一日中楽器の練習をしているので、普通の人が追い付けるわけがない、というようなことをお話されていたんですね。

自分に才能を感じていた人たちは子供の頃から見える景色が違っていたと思います

昨日、TBS系のテレビ局で放送された「プロ野球戦力外通告 クビを宣告された男達」という番組を見ました。

プロの世界は本当に厳しいですね。

特にプロ野球はサッカーと並んで日本人に最も人気のあるスポーツですから、競技人口もすさまじく多いと思います。

私が小学生の頃は、スポーツ中継といえば野球、相撲、プロレスくらいでしたし、「巨人の星」を始め野球漫画も全盛期でしたので、私でさえプロ野球選手になりたいと思ったことはあります。

自分は小学生ですぐにあきらめましたが、中学生の頃に野球部で飛び抜けて上手かったりすると、その時点で本気でプロを考える人もいそうです。

まずは甲子園を狙える高校を目指すのでしょうか。

私の周りにも、そのような人たちが数人いたように記憶しています。

ただ先ほどいいましたように、野球はすそ野がとても広いです。

強豪校でレギュラーになって、甲子園で勝ち進んで、スカウトの目に留まる活躍をする、なんて確率は私には想像もできません。

プロ野球でレギュラーになるなんて、さらにその上のレベルです。

冒頭のテレビ番組に戻りますが、取材された元選手の方々はそれをくぐり抜けてきた人たちです。

狩猟採集民のような生活をしているので生き方の規則性が見えてきたのでしょう

30代の初めまでは大きな会社に所属していましたし、30代の中頃まではその会社にいるときにお世話になった会社や人と一緒に仕事をしていましたので、自分のディレクターという役割の範囲で考えたり行動したりすればよかった。

しかし体を壊してからは、それまでとほとんど関係のない会社や人と仕事をするようになって、ディレクターのような決まった役割のないポジションで考えたり行動したりするようになりました。

仕事内容はITに関連していることだけがこれまでと共通で、出向している会社自体は食品関連だったり電話工事だったりするのです。

自分の周りは、まったく違う人生を歩んできた人たちばかりなわけです。

それが昨日の、40代くらいから生き方の規則性が見えてくるようになった理由だと思います。

公務員や同じ職場にずっと勤めてきた自分の親、親戚、同級生などと話してみても、彼らの生活パターンを感じます。

どちらの人生が優れているとか劣っているとかの話ではなく、まったく違う景色を見ている人生だな、と思ってしまいます。

そのような人生を歩んできた彼らの話を聞いていると、人間どうしが深い付き合いをしていますし、彼ら自身の仕事についても相当に深いところまで極めているように感じます。