時代の変化

四半世紀以上前のワープロが今でも使えていたことに驚きました

父が使っていたSHARPのワープロ「書院」の液晶がほとんど見えなくなった、ということで修理できるか調べてみました。

確か10年くらい前にも、同じ症状で液晶を取り替えてもらった記憶があります。

すでにメーカーでの修理は受け付けていませんでしたので、ワープロ修理専門店にお願いしました。

当時でさえ「書院」というワープロはずいぶん昔の製品というイメージだったので、修理ができることに驚いたものです。

今回複数のワープロ修理専門店に確認しましたが、やはり液晶が入手不可ということで修理はできないとのことでした。

中古ワープロ販売店には、この機種より少し新しい年代のものならば在庫があるとのこと。

父が操作に慣れることができるかということも考慮する必要があるので、どうするかしばらく検討したいところです。

SHARPのホームページ「書院シリーズ、アイプリメーラ 補修用性能部品の保有期限」によると、この機種の発売年月は1992年と書いてあります。

Windows 95どころかWindows 3.1の時代です。

子供の頃に夢見た未来が今やってきているように感じます

私が小学生のときに大阪万博が開催されました。

当時のテレビには、万博のパビリオンが多かったと思いますが、21世紀の都市や生活と称した映像がよく流れていたように記憶しています。

宇宙基地のような家に住んで、ボタンを押したら食事が出てきたり、ロボットが身の回りの世話をしてくれたり。

今見たらチープな作りだろうと思いますが、当時はあと30年もするとこんな生活になるんだと、夢を膨らませていたものです。

実際に21世紀になってみると家は木造のまま、食事も自分で作りますし、食べているものも当時とほぼ同じ。家にはロボットもいません。

とはいうものの、当時予想されたものが実現していたり、それより進んだものもかなりあると思います。

世界中の人と繋がるスマートフォンや自動翻訳機、リニア新幹線などはそれにあたるんじゃないでしょうか。

一方で、当時夢見ていた世界のようにならなくてよかった、という想いもあります。

あんな世界が実現するためには、私が成人するまでに多くの技術が実用化されている必要があります。

つまり、どのような仕組みになっているのか分からないまま、未来の機器に囲まれてしまって、ただそれらを使わされているだけという状態。

量子コンピュータの基本的な仕組みが少し分かりました

先日、急に量子コンピュータのことが気になって、竹内繁樹著「量子コンピュータ 超並列計算のからくり」(ブルーバックス)を注文したことを書きました。

少しずつですが読んでいて、第4章「「量子」を使った計算機」という、量子計算の基本的な仕組みの説明まで読み終えたところです。

本自体は数式が苦手な人にも分かりやすく書いてあるので、今のところ何とか(半分くらい)ついて行っています。

光や電気は基本的な単位である「光子」や「電子」から成り立っていて、そのような基本単位を「量子」と呼ぶそうです。

面白いのは、光子を半透鏡という道具で2つの経路に分けた場合、各経路では「半分の光子」が検出されることはないらしい。

ではどうなるかというと、「ある振幅を持った2つの確率波として表される状態にある」としか言いようがない、と。

これを「重ね合わせ状態」と呼び、この状態を利用して莫大な並列計算を一挙に行う、というものらしいです。

これこそが現在のコンピューターの1ビット、つまり0と1という2つの状態だけではない、量子ビットの特徴です。

いつの間にか変わっていても気づかないのは興味のない分野なんですね

今では信じられないかもしれませんが、私の実家の住宅地に引っ越してきた当初は、トイレは汲み取り式でした。

定期的にバキュームカーが回ってきていました。

いつ水洗に変わったのか記憶にありません。

それほど昔のことなんだと思います。

そういえば、テレビのアンテナも各家庭の屋根に設置されていました。

屋根に設置されていない家に遊びに行ったとき、その家の方はチャンネルを替えるごとに、手でテレビの上に置かれている小さなアンテナの方向を変えながら見ていました。

当時、そういう光景は普通だったと思います。

それがいつの間にか、住宅地共用のアンテナケーブルが各家庭に引かれたのですが、いつ引かれたかも記憶にありません。

まだ子供だったということもあるのでしょうが、漫画やテレビ番組の内容や、ステレオのカセットテープなど、自分が興味のあるものは小さな変化でも見逃さないのに、生活が変わるような大きなインフラの変化は見逃してしまうんですね。

当然、親たちの世代はこのような変化に喜んでいたと思います。

東京電力が節電を呼びかけているというニュースで時代の変化を感じました

福岡も相変わらず厳しい寒さが続いています。

先日、この寒さのせいで暖房需要が増え、東京電力が節電を呼びかけているというニュースが流れました。

何気なく聞いていたのですが、ふと「そうか、みんな石油ストーブは使っていないんだな」と気がつきました。

エアコンで暖房するのは世間では当たり前のことなんでしょうが、私は今でも石油ストーブを使っています。

エアコンは冷房にしか使っていません。

火で暖めるのが好きだったり、風が出てくるのが好きでなかったり、ちょっとした好みの問題だと思います。

いつの間にか親も親戚も、エアコンで暖房をしているようです。

そういえば先日、親からご飯の保温ジャーが壊れたので買ってきて欲しいと頼まれました。

近くのヤマダ電機に行くとひとつも売っていません。

店員さんがいうには、今では電気炊飯器ばかりで、保温ジャーを買う人はいないのだとか。

私の実家のように、ご飯はガス釜で炊くのがうまいと信じている人は、今では珍しいのでしょう。

インターネットで象印保温ジャーを調べてみると、同じ商品があったのでさっそく注文しました。

お金を使わずに豊かに暮らすのは、若いときこそ満喫できるのかもしれません

東京でも生活に必要なものは、地方とそう変わらず安く手に入ると思います。

ただ家賃がとても高いことと、そのぶん仕事がたくさんあることが、お金を使わない生活を考えることから遠ざけているような気がします。

そうであればお金を使わない生活というのは、家賃も安く、近くにディスカウントストアもあり、仕事もそれなりにあるような地方であれば実現しやすいのでしょう。

よく、田舎暮らしを勧める雑誌やテレビ番組がありますよね。

自給できるものは自給して、お金をあまり使わないで生活するような。

スローライフというのでしょうか。

それを見ている間は憧れるのですが、実際に生活するとなると、夜は真っ暗だし虫はたくさんいるしで大変だと思います。

さらに高齢になると病院のお世話になることになります。

若くても事故に遭えば同じです。

私が自転車ですっころんで救急車で運ばれたのが、クルマで2、3分の距離の福西会病院でした。

かなり重症だと分かって、大事を取って福大病院に転送されたのですが、それでもクルマでの数分の距離です。

そのときは、近くに大きな病院があってよかったと心から思いました。

デフレでものが安く買えたとき、お金を使わずに豊かに暮らす人生を考えてしまいます

服はあまり買わないのですが、久しぶりにジーパンを買いに木の葉モール橋本のユニクロに行ってきました。

期間限定で2,990円になっていたので2本買ってしまいました。

私が学生の頃は6,000円だか8,000円だか、とても高かった記憶があります。

次の日ベルトも買おうと思って近くのミスターマックスに行くと、698円の均一価格でたくさんぶら下がっています。

当然本革ではありませんが、消費者がこれでいいと判断しているということなのでしょう。

昔はだいいちベルトも本革の高価な製品しか売っていなかったように思います。あったとしても布製ですね。

スーパーの特売日に行くと、卵にしろチーズにしろビックリするほど安くなっていたりします。

私は右肩上がりの経済成長の中で成人した世代なので、物価についてこのように比較してしまいますが、バブル崩壊後に生まれてデフレが普通だった世代は、物心ついたときからお金を使わない生活が普通だった人も多いのかもしれません。

十数年前に東京で生活していたときもデフレは進行していたのですが、なにぶん東京は家賃が高いです。

お金を使わない生活というのは、その部分がネックになっていると思います。今の家賃の相場はどうなのでしょう。

スマホの暗黙のマナーのようなものは長い時間をかけてできあがって行くと思います

今までスマホ依存のお話をしていましたが、それではこの記事の書き初めで触れた、事件のきっかけとなったような状況でスマホを見たことについては、どう考えればいいのでしょうか。

それを判断するのは、社会人として身に付けておくべきマナーなのでしょうか。

例えば、仕事中や人と話しているときは当然見てはいけないけれど、緊急の用事で定期的に見ざるを得ない状況のとき、相手に事情を説明して了解を得ておくような・・・。

今はスマホが急速に普及してそれほど時間が経っていませんし、これほど依存する人が増えるような持ち物は過去にあまりなかったように思いますので、どのようなときに使っていいのかいけないのか、人類共通のマナーの確立がまだ追っ付いていないんじゃないかと思います。

もしかしたらスマホのマナーの問題は、人間の性の問題と似たようなところがあるではないでしょうか。

性は本能の問題ですので、人間一人ひとりが本能の赴くままに行動してしまったら社会は成り立ちません。

国によってある程度の違いはあるでしょうが、どの国もあるレベル以上のマナーは共通して持っていると思います。

○○のような社会活動中は性の話題は口にすべきではない、などです。

スマホ依存は薬物中毒とちょっと違う気もします

昨日はスマートフォンが普及するよりも前から、若い人たちが仕事中に携帯メールやパソコンチャットをやっていたお話をしました。

自分も仕事でパソコンを使っているときは、仕事以外やらないかといえばそういうことはなく、Yahoo! JAPANでゴシップ記事を見たりAmazonで欲しい商品を探したり、もし上司がいたらいつも注意されそうなことをやっています。

スマホには昨日から書いているゲーム、メール、チャット、WEB、すべてが入っています。

そのうちの一つでも楽しめるのですから、果てしなく楽しめるのは当然だと思います。

なので、スマホが手放せなくなるスマホ依存症のようなこともいわれるんですね。

それどころか、スマホ依存は薬物中毒と同等に語られたりしているようです。

それが医学的な見地からなのか私は詳しくありませんが、何かしらの類似性は見出せるのかもしれません。

しかし私が思うに、スマホ依存と薬物中毒はちょっと違うんじゃないかと思います。

それをやったら社会生活に支障をきたすというのが依存症だとすれば、クルマの運転中に見るとか、何日も食事をしないとか、何日も寝ないとか・・・ですかね。

若い人がスマホを手放せない感覚は分かります

最近話題のニュースに、スマートフォンを見ていたことが事件のきっかけだったというのがありますが、外出中はスマホを使っている人を頻繁に見かけますし、スマホは人の体に一部になっているような感覚さえ覚えます。

もちろんガラケーの方や、そもそもモバイル機器を持っていない人は除くのですが。

睡眠中やスマホを使わない仕事中のように、触れることのできない時間以外に、人がこれほど多くの時間を費やしている機器は、過去のものも含めて筆頭に挙げられるのではないでしょうか。

クルマの運転中にスマホを見ている人もいて、さずがにそれはいけないと思いますが、若い人が四六時中スマホを見ていたいのは分かる気もします。

私がテレビゲームのディレクターをしていたときは、スマホではなくガラケーの時代でした。

あるとき、ゲームもほぼ完成してデバッグをしているとき、20歳そこそこの若いスタッフがガラケーでメールを打ちながらデバッグをしているんですね。

RPGゲームだったと思うのですが、片手でデバッグのためにゲームコントローラーを操作しながら、片手で友達にメールを打つ。

メールの方はほとんどブラインドタッチです。