心理療法の事例から自分の物語を生み出す面白さにはまっているのかもしれません

以前より、河合隼雄さんの「〈心理療法〉コレクション」(岩波現代文庫)というシリーズを少しずつ読み進めています。

最初シリーズの一冊、「カウンセリングの実際」を読んでみたら、あまりの面白さに全六冊を揃えてしまいました。

何故面白いのかというと自分がカウンセリングを受けているような気分になるから、みたいなことをブログに書いた記憶があります。

今日シリーズの一冊、「心理療法序説」を読んていたら、その理由について書かれている箇所を見つけました。

「第11章 心理療法家の訓練」の「3 事例研究の意義」に、例えば「不登校という現象を研究しようとする場合」、調査によって一般的傾向が分かっても、「ある特定の生徒に向き合ったとき」あまり役に立たないとあります。

長いですが、以下抜粋です。

私の場合、仕事選びの条件として「使命感」というのは少し違うかもしれません

よく、仕事は「好きなこと」をした方がいいのか「得意なこと」をした方がいいのか、という話を聞きます。

私自身、学生の頃からパソコンが好きだったので、それがきっかけでゲーム開発会社のアルバイトをすることになり、社会人になってもその会社で仕事をするようになりました。

その後独立して、ゲームとは関係ないアプリ開発の請負の仕事をしています。

ゲーム開発会社にいたときは、周りにはゲームが「大好き」な人たちが多く、その人達に比べれば私は好きとはいえませんでした。

それに比べてITはそれなりに好きで、それなりに得意だったんだと思います。

昨日も書きましたが、よくこのブログで、年をとったらやりたい仕事を考えているということを書いています。

ゲーム開発会社の件もありますので、年をとったらやりたい仕事は「好きかどうか」を重視しています。

そんな中、「好き」と「得意」以外に、「使命感」みたいなものもあるんじゃないかと気が付きました。

例えば体のどこかが悪くて長年苦しんでいた人が、あるときヨガに出会ってとてもよくなった。同じ悩みを抱えている人にそれを教えているうちに、仕事になってしまった・・・みたいな。

仕事を心から愛している人を見てしまうと自分の仕事の再検討が必要だと感じます

今日夕食の時間に、TBS系列で「メイドインジャパン★『VS本場』日本代表はどこまで世界に迫れるのか!3時間SP!」という番組をやっていました。

私が見たのはヴァイオリン対決。長野県松本市のヴァイオリン職人、井筒信一さんの作品と、イタリアのクレモナで製作されたバイオリンです。

後片付けをしていたのでちゃんと見ていませんが、今までいろいろ苦労されてきたことや、対決で音のよさを評価されて感激で涙ぐんでいらっしゃったことなどが印象に残りました。

本当に心から製作に打ち込まれているんだと思います。

何でこんなことを書いているかというと、私が年をとってからやりたいと思っている仕事とずいぶん違うと感じたからです。調査してみると、あまり気乗りしないジャンルの依頼内容が多そうなんですね。

例えばスタジオミュージシャンでいえば、本人はジャズが好きなんだけど違うジャンルの演奏依頼が多い、というような。推測で書いていますので、実際にどうなのかは分かりませんが・・・。

なので、井筒さんがヴァイオリン製作の仕事を愛していらっしゃるようにお見受けして、羨ましいなと思ったんですね。

もちろん井筒さんは才能があったから成功されたわけですし、私が同じことをやったとしてもとっくに挫折していると思います。

易と仏教の本で似た記述を見つけた話、その2です

一昨日ブログに、易は「吉か凶か」ではなく「吉凶併せ持つのが人生」という発想のようだと書きました。

凶だと思っていた卦(か)が、河村真光著「易経読本」(光村推古書院)という本に、「そうではない」と解説されていたんですね。

「卦辞の「維れ心亨る」は、険難も真っ向から取り組めば、誠意は必ず天に聞き届けられると太鼓判を押し」ている。「人は生きている限り、災禍は誰の上にも等しく、しかも正確無比に降りかかるものと、日頃から腹をくくっておくべきである」、というように。

逆境のときも含めて人生であること、さらにいえば、その逆境をさえ前向きに利用しようという発想があるようなのです。

そして数日前にも書きましたが、河村さんの本と同時に読んでいるティク・ナット・ハンさんの本にも、似たような記述があるんですね。

今日、ティク・ナット・ハンさんの「ブッダの〈今を生きる〉瞑想」(野草社)を読んでいたら、そのような箇所がありました。

この本は三つの経典について解説しているのですが、その中の一つ、「大いなる人の八つの悟り(仏説八大人覚経)」について、ハンさんが日常の中で応用できるように十一のガイドラインを作成されています。以下、その十一番目からの抜粋です。

今の時代に音楽を純粋に楽しめているのは楽器を演奏するアマチュアかもしれません

インターネットを見ていたら、スティーヴン・ウィット著「誰が音楽をタダにした? 巨大産業をぶっ潰した男たち」(早川書房)という本が紹介されていました。

mp3やナップスターなどの発明者や海賊行為をしている人たちのことを取材した内容のようです。

Amazonにも多くのレビューが書き込まれています。

確かに音楽はタダといっていいような状況になっていますし、若い人の中には音楽にお金を払ったことがない人も増えているようです。

録音された音楽にしろコンサートにしろ、私の世代が音楽に一番お金を払った世代じゃないかと思います。

小学生の頃から、限られたお小遣いでEPやLPを買っては、何度も繰り返し聴いていました。

そのEPやLPは宝物でした。

今の同世代の子どもたちにとって、無料や定額制サービスで聴き放題の音楽はどのような感覚なのでしょう。

音楽自体がそのような状況に対して、録音や再生の技術は当時と比べて飛躍的に向上しています。

ハイレゾの音源を高級オーディオで再生して楽しんでいる人は多いですよね。

一方で、音楽はパソコンでYouTubeで聴ければ十分、という人も多いんじゃないかと思います。

易は「吉か凶か」ではなく「吉凶併せ持つのが人生」という発想のようです

昨日は、易の「雷沢帰妹(らいたくきまい)」という一般的に凶といわれている卦(か)について、河村真光著「易経読本」(光村推古書院)という本には決してそうではないと説明されていること、そしてその説明に易経の深い思想を教えられたことを書きました。

そこで今日は八純卦(はちじゅんか)について、この本の解説に目を通してみました。

八純卦とは八卦、つまり乾(けん)、兌(だ)、離(り)、震(しん)、巽(そん)、坎(かん)、艮(ごん)、坤(こん)、それぞれが上と下に並んだ卦のことです。

すると昨日と同じように、固定概念を覆されるような解説を見つけました。

八卦の一つ、坎は険難を意味するのですが、それが上下に二つ重なる「坎為水(かんいすい)」は、四つの代表的な悪い卦(四大難卦)の一つに数えられています。以下、抜粋です。

「坎為水を禍々しい卦などと誤解する俗易は論外としても、案外多くの人がこの卦を望ましくないものと解するのは、私にはどうしても合点がいかない。卦辞を読めばわかるように、これは一種の励ましの卦である。「艱難汝を珠にす」と同様、卦辞の「維れ心亨る」は、険難も真っ向から取り組めば、誠意は必ず天に聞き届けられると太鼓判を押し、「行けば尚ぶことあり」、そこには必ず得るものがあるといっている。」

易占は自分の深層心理や世の中の仕組みを知るものとの思いが強くなっています

先日、最近買った河村真光著「易経読本」(光村推古書院)には、ちょっと勇気をもらえる易の考え方が書いてあるということを書きました。

易経を学ぶために、一年ほど前から「今日一日の運勢」を占っているのですが、毎日のことなので当然悪い卦(か)や爻(こう)が出る日もあります。

それでも悪い結果が出た直後は、あまりいい気持ちはしません。

昨日も「雷沢帰妹(らいたくきまい)」という卦の上六の爻が出ました。

一般的な卦の説明は「進めば凶。何の利益もない」、爻も不吉な例えとともに同じようなことが書かれています。

この卦については、河村さんの本に次のような解説があります。

「帰妹の卦辞はたしかに愛想がないが、本来、「易は以て険を占うべからず」(左伝昭公十一年)が鉄則である。また易経には、随所に悲愴感と危機感に満ちた言葉が出てくる。しかし易の真髄は、本来健康な楽天主義であり、行間にひそむのは、あくまでもたくましい人間性の謳歌である。これをうっかりして、表面的な言葉だけにとらわれると、易はたちまち俗占に陥る危険性がある。」

また易経の深い思想を教えられました。

河村さんがこのような解説をされたのは、ある女性が長年この卦を恐ろしい卦だと思い込まされていた、ということがあったらしい。

多感な時期に通学のとき楽しかった思い出がたくさんあるのは羨ましいです

今日はASK アクティブシニア交流会さんの交流会の日。私はその会の前に行われる理事会に行ってきました。

いつもの天神の会場が使えなかったらしく、今回は中央区荒戸という場所にある福祉施設「ふくふくプラザ」です。

地下鉄唐人町駅から商店街を通って行ったのですが、レトロな雰囲気でとても感じのいい商店街でした。看板に「鯨肉」なんて書いてある魚屋さんもあります。

ASKの役員の方々も久しぶりに通ってきたようで、「昔はもっと栄えていた」というようなお話をされていました。

ネットで調べてみると、江戸時代に参勤交代で使われていた唐津街道で商売をしていた町家が起源とあります。

ずいぶん古くからあるんですね。

帰りにも通ってみると、セーラー服の女学生たちが歩いています。

それを見てちょっと羨ましくなってしまいました。多感な時期に毎日通るわけですから。

私が通っていた中学校の通学路には商店街はありません。住宅と田んぼばかりでした。

覚えているのは、たまにポツンポツンと点在している文房具屋さんやラーメン屋さんに寄ったことくらい。

今、街を歩くと見かけるクレープ屋やたこ焼き屋やゲームセンターなどは一切ありません。

唯識の各心所を見つめていい変化をもたらしてくれる瞑想が書いてありました

先日ティク・ナット・ハンさんの「ブッダの〈気づき〉の瞑想」(野草社)という本に、大乗仏教の唯識のことが触れられていると書きました。

例えば「欲求を観察する」というエクササイズがあること、ブッダのお弟子さんがそのエクササイズを行うことで無欲な生き方をするようになったこと、唯識学派には十一の善の心所があり、その中の無貪というのが無欲にあたる、というようなことです。

今まで、唯識をどうやって生活に活かせばいいのかよく分からなかったのですが、ティク・ナット・ハンさんの本を読むとそのヒントが得られそうな気がしてきました。

そこで同じ出版社の「ブッダの〈呼吸〉の瞑想」という本を注文してみました。

すると、さらに具体的な方法が書いてある箇所がありました。「第三節 四種の気づきの確立(四念処)」の中。以下、抜粋です。

同じ時期に易と仏教の本で似た記述を見つけたので印象に残りました

何度か書きましたが、易経を覚えるために毎日「今日はどのような日になるでしょうか」と易を立て、その卦(か)と爻(こう)の解説を読んでいます。

昨日の卦は火山旅。「旅行」の旅です。といっても物見遊山ではありません。

河村真光著「易経読本」(光村推古書院)によると、「心の旅路であり、それも失意の旅立ちである。」とあります。以下、抜粋です。

「何かの理由で、これまでの安住の地にいられなくなり離れる。たいていは得意の絶頂から失意のどん底に移行した時だから、何をするにも当然苦しい。となると易の出番である。 (中略) 易は偶然を否定し、あらゆる事象を必然とみなすので、得意・失意の時期も四季が巡るように循環して止まないと考えている。これが基本である。 (中略) 要するに得意も失意も永久に続くことはない。易は、失意の時期は、過ごし方一つで、逆に好機でもあると説く。」

易の考え方がよく分かりますね。

今まで、怒りなどでイライラしているとき占ってもいい結果だったり、優しい気持ちでいるとき占っても悪い結果だったりで、易はニュートラルだなと思っていました。

なぜこのようなことを書いたかというと、先日購入したティク・ナット・ハンさんの「ブッダの〈気づき〉の瞑想」(野草社)に似たような記述があったからです。