団塊の世代をシニアのロールモデルにさせていただこうと思います

よく聞くのは、60代はそこまで体力の衰えを感じることはないが、70歳を超えたらそれを感じることが多くなる、というようなことです。

そのような年代で身近な人をロールモデルに、これからの健康管理も含む生き方の参考にしてみようかな・・・などと考えていたら、いるじゃないですか。身近な世代、団塊の世代が。

私が子供の頃からよく遊んでもらっていた親戚の叔父さんが団塊の世代です。

先日お話した、ASK懇親会のスポーツ好きの方もその世代だとおっしゃっていました。

ネットで団塊の世代を調べてみると、ビートルズ世代とも呼ばれているようですね。

ああ、この時代。音楽でいえばビートルズ、グループ・サウンズ、フォークソングの時代です。

ファッションではジーンズやミニスカート。VANジャケットなんてそうですよね。

1960年代後半の時代の大きな変化を、若者が引っ張っていたイメージがあります。

ウッドストックやビートルズの解散のとき、この方たちは成人を迎えるわけです。

私は中学に入ってから洋楽を聴き始めたのですが、このようなイベントから5年ほど経った当時でも伝説のようでしたし、今にして思えば、時代の熱気が残っていたような気がします。

私の親の世代の80代は体力が衰えている方が多いです

私の親は80代で、幸い自立して生活できてはいるのですが、やはり体に悪いところがあって病院に通っています。

実家は昭和40年代にできた典型的な高度成長期時代の住宅地で、引っ越してきた当時は若いファミリーばかりでした。

思い返してみると、私は小学校に入学したばかりで両親は30代。今の私よりずいぶん若いです。

それから50年近く経てば、親たちはほとんどが80代です。

昔は子供がたくさんいて、住宅地内の公園は子供の声が鳴り響いていましたが、今では子供もほとんど見かけず、住宅地内の道路は病院の送迎バスをよく見かけます。

そのようなことを考えると、ASK会員さんの70代、80代の方々が、毎月天神の交流会においでになって、お酒も飲んで帰って行かれるのはすばらしいことだと思います。

実際に私が70代、80代まで生きていたとすると、どのようなシニアになるんだろうとたまに想像することがあります。

自分でもびっくりしたのは、40代から目が老眼になってきたこと。

それにここ数年は、長く座っていると腰が痛くなって、座っていられなくなるのも困ります。

健康に年を取るのは大事なことだと感じます

先週の金曜日に、ASK アクティブシニア交流会に参加しました。

今回は「人生90年時代へ 時代に合った社会の仕組みに変える」と題して、福岡市保健福祉局高齢社会部高齢社会政策課の方が講演されました。

以下ASKさんホームページから内容紹介の抜粋です。

「人生90年が普通になろうかという現在、福岡市における高齢者の現状と市の対応政策について学びましょう。

変わりゆく福岡市の姿、高齢化と単身化、全国平均を大きく下回る女性の健康寿命、自立度の変化パターン、男は生活習慣病 女はロコモに注意、外出頻度と認知症、高齢者の生き甲斐、自宅介護、孤立死予防、90年時代に合った社会仕組みづくり、etc・・・」

参加者は講演会には35名以上、そのあとの懇親会には20名とのことです。

会員の方の平均年齢は70代だと思うのですが、参加していつも感じるのはみなさんお元気なこと。

自己紹介で85歳という方もおり、この方は懇親会にも参加されていました。

参加者の中に、ゴルフやマラソンなどスポーツ好きの70代の方がいらっしゃったのですが、この方など懇親会で強いウィスキーを何杯もおかわりされていました。

長い歴史を持つ自動車メーカーは多いのでそれに当てはめて考えてしまいます

じゃあトヨタはどうなんだ。近年F1やル・マンに挑戦したり、GRというスポーツカーのブランドを立ち上げているじゃないか。

そうはいっても、トヨタにレーシングスピリットを感じている人は、あまりいないんじゃないでしょうか。実際どうなのでしょう?

ホンダもGT-Rもトヨタも、1960年代からレースを戦ってきたのですが、やはり本田宗一郎さんや桜井眞一郎さんの影響が大きいような気がします。

このような歴史を知っている人は、ホンダや日産のファミリーカーや商用車に乗ったときに、たまたまキビキビ走ろうものなら、やっぱりF1をやっているからとか、GT-Rがあるから、などと理由付けする人もいると思います。自動車会社の人からすれば全然関係ないとしても。

私は同じような構図を、Windowsパソコンにも感じてしまうんですね。

私のパソコンは電源を入れると、まずBIOSの起動画面が出て、メモリチェックなどの文字が表示され、そのあとにWindowsが起動します。

MS-DOSの時代のIBM PCパソコンは、起動時に大量のコマンドがズラズラと流れていました。

今のメーカー製パソコンはメーカーのロゴが表示されたあと、すぐにWindowsが起動するのでしょう。

自動車メーカーに強い企業風土を感じています

自伝を読んだわけではありませんので詳しいことは分からないのですが、Microsoftの創業者ビル・ゲイツは学生の頃からプログラムばかり書いていた、という話を聞いたことがあります。

一方でAppleの創業者スティーブ・ジョブズは、高校生の頃にブルー・ボックスという、電話をかけることができる装置を売って儲けていたようです。こちらは事業家ですね。

根っからの開発者であるビル・ゲイツにとっては、パソコンとそのソフトウェアが最も能力を発揮できる舞台であって、スマートフォンやテレビゲーム機のような分野では、それが十分に発揮できないんじゃないかと思います。

もちろん、Microsoftが何かの分野に参入するときは莫大な資金を投入するでしょうから、ある程度の成功を収めることはできるのかもしれませんが。

このように考えてしまうのは、私は昔からクルマが好きで、この世界は企業風土が大きく影響していると思うからです。

私はスーパーカー世代の最初に入るかは入らないかぐらいの年齢で、小学生の頃からクルマが好きでした。

かれこれ40年以上、クルマの変遷を見守ってきたことになります。

そこで感じるのは、企業のカラーというのはあまり変わらないということ。

創業者の作った企業風土はいつまでも影響するように思います

MS-DOSはあくまでも事務用パソコンというイメージで、その代表が、ワープロソフトの一太郎や表計算ソフトのLotus 1-2-3だったように思います。

音楽をやっている人たちの間ではApple Macintoshが憧れのパソコンで、Mac OSのマウスで操作するユーザーインターフェースは、圧倒的な洗練度を感じていました。

OSは確かSystem 6と呼ばれていた時代です。

そうこうしているうちに、いつの間にか職場のゲーム開発会社にWindows 3.1パソコンが導入され、ワープロはWordに、表計算ソフトはExcelに席巻されて行きました。

もうパソコンの世界は、MicrosoftのWindowsとOffice一色という感じでした。

WindowsにMac用の有名な音楽ソフトやお絵かきソフトが移植されて行ったので、そのうちMacを使う人はほとんどいなくなるんじゃないかと思っていました。

Windows 98やWindows 2000の時代です。

しかし、そうはなりませんでした。

今でもクリエイターはMacを使っている方が多いですし、アプリ開発者や学生など、多くの方がMacを使っています。

Windows 10 Mobileの開発終了に企業風土というものを感じてしまいます

MicrosoftのWindows 10担当副社長ジョー・ベルフィオーレさんという方が、公式Twitterアカウントで、スマートフォン「Windows 10 Mobile」の新規開発をやめると発言したそうです。

まだMicrosoftからは正式に発表されていないようですが、これは事実上の開発終了宣言ということのようです。

以前はWindows Phoneと呼ばれていて、KDDIからも発売されており、iPhoneやAndroidに続く第三の勢力と目されていたのですが、やはりこの2強の牙城を崩すことはできませんでした。

Microsoftのことですから、とてつもない開発費や大量の開発部隊が投入されたはずです。どうしてこのような結果になったのでしょうか。

私は専門家ではありませんので分析などはできません。

ただ私は、どうしても企業風土というのを感じてしまうのです。

学生の頃ゲーム開発会社でアルバイトをしていたとき、パソコンでSE音をコンパイルする作業をCP/MというOS上で行っていました。

それがいつの間にか、パソコンのOSはMicrosoft社製のMS-DOSに変わっていたんですね。

一つの感情でも幸福感が高まるものとそうでないものがありそうです

昨日はネガティブな感情であっても、自分にとって価値を感じることのできる感情であれば、幸福感が高まるらしいというお話をしました。

ふと考えたのですが、怒りや悲しみや不安のようなネガティブな感情といっても、その一つ一つの感情にはいくつかの種類があるんじゃないでしょうか。

怒りという感情一つとってみても、自分が価値や意義を見出せる怒りと、見出せない怒りがあるということですね。

例えば、義憤のような怒りであれば幸福感や満足感は高まるが、外出先で持ってきたはずのものを忘れてしまって自分に腹が立つ、というような怒りにはそのような効果はない、というような。

私は少し不安症でもあるので、物心ついたときから不安と付き合ってきました。

私のような人と、元々それほど不安というものを感じない人を比べたら、不安というものに対する定義も違うでしょうし、不安症の人は、変な言い方ですが、不安のバラエティも豊かだと思います。

その豊かなバラエティの中から、自分が価値や意義を見出せる不安や、そうでない不安など、いろいろな種類に分類することができそうです。

ネガティブな感情も自分にとって価値があれば幸福感が高まるらしいです

先日ネガティブな感情に対する思い込みを覆す、ちょっと面白い記事を見つけました。

Journal of Experimental Psychologyに発表され、その関係者が語っているところによると、怒りや恐れのような不快な感情であっても、自分にとって価値や意義を感じられる感情であれば、それを受け入れることで幸福感が高まる、というようなことらしいです。

確かに今まで生きてきて、つい怒ってしまって友達と疎遠になったり、会社の同僚と気まずくなったりしたことがあるため、経験上、怒りは抑えなければならないと信じ込んでいました。

その一方で、怒りのような、人間にとって自然な感情をいつも抑えつけるのは、心にはよくないのは分かります。

悲しいときや落ち込んだときは、同じように悲しい音楽を聴くことで、それが心の慰めになって気持ちがやわらぐとはよくいわれることです。

もちろんネガティブな感情が度を越して、精神的な病に陥ってしまうのは本末転倒ではあります。

しかし先日、あるニュースを見ていて、「自分があんなことをされたら」と想像してムカッときたとき、この記事のことを思い出して「あれ、今怒ったことで少しスカッとしているかもしれない」と思ってしまいました。

人の頭の中をのぞいてみたいという気持ちはあります

自分以外の人が私の頭の中をのぞいたら、その人が経験したこともない情景が広がっていて、びっくりするんじゃないかとお話しました。

その逆に、私は他の人の頭の中はどうなっているんだろう、と想像することがあります。

テレビでたまに、第一線で活躍されている編曲家やスタジオミュージシャンの方が、即興で演奏されるのを見ることがあります。

あれほど高いレベルで演奏できるということは、日頃からとても真摯に音楽に向き合われているのだと思います。

そのようなときに、彼らの日常はどのような頭の中なんだろう、とシンプルに興味を持ちます。

彼らの頭の中を一日体験できるとなると、自分とはまったく違っていて、愕然とするんじゃないかと思います。

これはプロの漫画家にしろ、将棋の名人にしろ、プロ野球の選手にしろ、同じでしょう。

そのようなプロフェッショナルの方ばかりではなくて、普通の人に対しても、のぞいてみたい気持ちはあります。

例えば自分の肉親など、身近な人たちとたまに言い争ったあとに、「まったくあの人の頭の中はどうなっているんだろう」と考えるときなどがそうです。