易占は自分の深層心理や世の中の仕組みを知るものとの思いが強くなっています

先日、最近買った河村真光著「易経読本」(光村推古書院)には、ちょっと勇気をもらえる易の考え方が書いてあるということを書きました。

易経を学ぶために、一年ほど前から「今日一日の運勢」を占っているのですが、毎日のことなので当然悪い卦(か)や爻(こう)が出る日もあります。

それでも悪い結果が出た直後は、あまりいい気持ちはしません。

昨日も「雷沢帰妹(らいたくきまい)」という卦の上六の爻が出ました。

一般的な卦の説明は「進めば凶。何の利益もない」、爻も不吉な例えとともに同じようなことが書かれています。

この卦については、河村さんの本に次のような解説があります。

「帰妹の卦辞はたしかに愛想がないが、本来、「易は以て険を占うべからず」(左伝昭公十一年)が鉄則である。また易経には、随所に悲愴感と危機感に満ちた言葉が出てくる。しかし易の真髄は、本来健康な楽天主義であり、行間にひそむのは、あくまでもたくましい人間性の謳歌である。これをうっかりして、表面的な言葉だけにとらわれると、易はたちまち俗占に陥る危険性がある。」

また易経の深い思想を教えられました。

河村さんがこのような解説をされたのは、ある女性が長年この卦を恐ろしい卦だと思い込まされていた、ということがあったらしい。

多感な時期に通学のとき楽しかった思い出がたくさんあるのは羨ましいです

今日はASK アクティブシニア交流会さんの交流会の日。私はその会の前に行われる理事会に行ってきました。

いつもの天神の会場が使えなかったらしく、今回は中央区荒戸という場所にある福祉施設「ふくふくプラザ」です。

地下鉄唐人町駅から商店街を通って行ったのですが、レトロな雰囲気でとても感じのいい商店街でした。看板に「鯨肉」なんて書いてある魚屋さんもあります。

ASKの役員の方々も久しぶりに通ってきたようで、「昔はもっと栄えていた」というようなお話をされていました。

ネットで調べてみると、江戸時代に参勤交代で使われていた唐津街道で商売をしていた町家が起源とあります。

ずいぶん古くからあるんですね。

帰りにも通ってみると、セーラー服の女学生たちが歩いています。

それを見てちょっと羨ましくなってしまいました。多感な時期に毎日通るわけですから。

私が通っていた中学校の通学路には商店街はありません。住宅と田んぼばかりでした。

覚えているのは、たまにポツンポツンと点在している文房具屋さんやラーメン屋さんに寄ったことくらい。

今、街を歩くと見かけるクレープ屋やたこ焼き屋やゲームセンターなどは一切ありません。

唯識の各心所を見つめていい変化をもたらしてくれる瞑想が書いてありました

先日ティク・ナット・ハンさんの「ブッダの〈気づき〉の瞑想」(野草社)という本に、大乗仏教の唯識のことが触れられていると書きました。

例えば「欲求を観察する」というエクササイズがあること、ブッダのお弟子さんがそのエクササイズを行うことで無欲な生き方をするようになったこと、唯識学派には十一の善の心所があり、その中の無貪というのが無欲にあたる、というようなことです。

今まで、唯識をどうやって生活に活かせばいいのかよく分からなかったのですが、ティク・ナット・ハンさんの本を読むとそのヒントが得られそうな気がしてきました。

そこで同じ出版社の「ブッダの〈呼吸〉の瞑想」という本を注文してみました。

すると、さらに具体的な方法が書いてある箇所がありました。「第三節 四種の気づきの確立(四念処)」の中。以下、抜粋です。

同じ時期に易と仏教の本で似た記述を見つけたので印象に残りました

何度か書きましたが、易経を覚えるために毎日「今日はどのような日になるでしょうか」と易を立て、その卦(か)と爻(こう)の解説を読んでいます。

昨日の卦は火山旅。「旅行」の旅です。といっても物見遊山ではありません。

河村真光著「易経読本」(光村推古書院)によると、「心の旅路であり、それも失意の旅立ちである。」とあります。以下、抜粋です。

「何かの理由で、これまでの安住の地にいられなくなり離れる。たいていは得意の絶頂から失意のどん底に移行した時だから、何をするにも当然苦しい。となると易の出番である。 (中略) 易は偶然を否定し、あらゆる事象を必然とみなすので、得意・失意の時期も四季が巡るように循環して止まないと考えている。これが基本である。 (中略) 要するに得意も失意も永久に続くことはない。易は、失意の時期は、過ごし方一つで、逆に好機でもあると説く。」

易の考え方がよく分かりますね。

今まで、怒りなどでイライラしているとき占ってもいい結果だったり、優しい気持ちでいるとき占っても悪い結果だったりで、易はニュートラルだなと思っていました。

なぜこのようなことを書いたかというと、先日購入したティク・ナット・ハンさんの「ブッダの〈気づき〉の瞑想」(野草社)に似たような記述があったからです。

メルマガから申し込みフォームへの誘導がうまく行っていないことが分かりました

ある団体のメルマガとホームページの運営のお手伝いをしています。

主な作業は、毎月開催されるイベントの出欠を取るために、メルマガからホームページの申し込みフォームへの誘導です。

ただ先日より、メルマガに直接「出席します」と返信される方がいることが分かって、ちょっと困っていたんですね。

百人単位の会員さんがいるので、G SuiteのGmaiをメルマガ専用に使っていて、いちいち返信をチェックしていられません。なので、「このメルマガに返信しないでください」と書いているのですが。

昨日は会員さんから、メルマガに記載されていたイベント情報の一部が間違っているという指摘が、役員の方に直接行きました。

ホームページの方は、情報は正確に記載されていました。

このような状況から、どうもかなりの方がホームページに行けていないんじゃないかと考えています。

会員さんはシニアの方やITに弱い方が多いようですし。

もちろん、メール自体を見ていない方も多いと思います。

弊社のアプリ「楽々談話室」も導入していただいていて、一部の方たちの間では稼働しているのですが、メルマガ会員全員にアプリをインストールしてもらうのは難しいです。

瞑想の説明に対応して唯識の解説がされているので唯識を生活に活かせそうです

昨日は、マインドフルネスの普及活動を行っているベトナムの僧、ティク・ナット・ハンさんの「ブッダの〈気づき〉の瞑想」(野草社)のことを書きました。

大乗仏教の方なので、この本にはたびたび唯識のことも触れられています。

例えば、「欲求を観察する」というエクササイズには、「何かを欲しいと思うとき「心は欲しがっている」と気づき、欲しいと思わないとき「心は欲しがっていない」と気づく。」から始まって、「憎んでいる/憎んでいない」、「緊張している/緊張していない」・・・のように、いろいろな心の状態を観察する瞑想のことが書かれています。

そしてバッディーヤというブッダのお弟子さんが、このような瞑想によって無欲な生き方をするようになり、幸福と平安を味わったというエピソードが語られています。

最後には「唯識学派では、「無欲」-----あるものを切望する欲求の不在-----を十一の健全な思いの形成のひとつにあげています。」という説明とともに、脚注にその十一種類の内容と「このうちで無貪が無欲にあたる。」という解説があります。

これは唯識の善の心所のことですね。

私は唯識の解説書を読むたびに、その緻密な理論体系に圧倒されるのですが、それをどうやって生活に活かせばいいのかは、今ひとつ分からないでいました。

ティク・ナット・ハンさんは臨済宗と浄土宗が入っているので親しみやすいんですね

昨日はベトナム仏教にも臨済宗があり、ティク・ナット・ハンさんは臨済宗の方というのを初めて知ったと書きました。

本当に仏教についても知らないことばかりです。

先日書いたように、ティク・ナット・ハンさんのマインドフルネスの土台が大乗仏教の唯識にあるという情報と、マインドフルネスはテーラワーダ仏教のヴィパッサナー瞑想に端を発しているという情報に触れて、そのことを確認しようとティク・ナット・ハンさんの「ブッダの〈気づき〉の瞑想」(野草社)を注文していました。

読んでみると、確かに両方の教義に関する説明が出てきます。

例えば「〈気づき〉の瞑想のポイント」という章の最初の方に、「認識の対象と認識の主体は分かれては存在しません。この世のすべては心のなかで生まれているのです。」とあり、このあと唯識の説明があります。

そして次のように続きます。

「これは、大乗唯識学派で展開した見地です。南伝の仏教でも、あらゆる存在の源は心であるという考え方がはっきりしています。」

こちらもこのあと上座仏教の説明があります。

このような感じで大乗仏教と上座仏教の説明が両方出てくるんですね。このような本は、今まであまり見たことがありません。

ティク・ナット・ハンさんが臨済宗だと知って少しご縁を感じてしまいました

先日ティク・ナット・ハンさんのマインドフルネスに興味を持ったということを書きましたが、早速「ブッダの〈気づき〉の瞑想」(野草社)を注文しました。

今日何気なくWikipediaを見てみると、何と宗派がベトナムの臨済宗と出ています。

ベトナムにも臨済宗はあるんですね。初めて知りました。不勉強でお恥ずかしい限りです。

何でもベトナムの仏教は、日本と同じように中国を経由した大乗仏教とのこと。

ただマインドフルネスと禅は違うと思うので、ティク・ナット・ハンさんの本を読んで少しずつ勉強して行こうと思います。

今までブログにも書いてきましたが、臨済宗にはちょっとご縁があるように感じています。

小学校の遠足で毎年行っていた油山観音 正覚寺は臨済宗のお寺でした。当時は山といえば油山というくらい親近感のある場所だったのです。

臨済宗のお坊さん、玄侑宗久さんの本も好きで何冊か持っていますし、最初に読んだ唯識仏教の本の著者、岡野守也さんは臨済宗の坐禅を実践されているらしい。

一休さんの生き方に憧れたこともありますので、自分の何処かに共鳴する部分があるのかもしれません。

なので、ティク・ナット・ハンさんが臨済宗だと知って、親近感を感じたのでした。

アプリはインストールが必要なので誰もが使うメールの簡便さにはかないません

ASK アクティブシニア交流会さんで弊社アプリ「楽々談話室」をテスト導入していただいています。

私は元々、ASKさんのメルマガ配信システムなどを含むホームページ関連のお手伝いをさせていただいていたんですね。

ASKさんにとってメルマガは、毎月の交流会やビジネス研究会を会員さんに告知する重要なツールです。

ただこのメルマガにはちょっと困ったことがあって、ASKさんの昔から使われているお問い合わせ用メールアドレスと、メルマガの送信元メールアドレスが違っていて、メルマガに返信する方が後を絶たないのです。

メールの最初に「このメールに返信しないでください」と書いてはいるのですが。

なので重要そうなメールに限り、役員の方々に転送するようにしていました。

しかし結構な頻度なので、役員の方も全部見れていないんじゃないかと思っていて、今回「楽々談話室」の役員の方専用の部屋でメールを見られるようにしました。

といってもやり方は単純で、Googleドキュメントにメールを貼り付けて、チャットからリンクを貼るだけです。

役員の方にとっても、メルマガに返信された複数のメールを見落とすことなく見られるので、メリットはあると思います。

将来やりたいことがそのままお布施になるかもしれないので嬉しくなりました

先日ブログに、マインドフルネスの普及活動を行っている禅僧のティク・ナット・ハンさんのことを書きました。

この方の思想の土台が唯識にあるということを知って、俄然この方に興味を持ったんですね。この方の本を読んでみようと思っています。

それに先立ち、竹村牧男さんの「知の体系 迷いを超える唯識のメカニズム」(佼成出版社)を再度読み直しています。

この本は、唯識の全体像を分かりやすく解説されているのですが、他の入門書と違うのは、専門用語を省略することなく丁寧に説明してくれているんですね。

そのことがあとがきに書かれています。

「唯識には、確かにむずかしい面がある。その一つの大きな要因として、唯識は全体を通じて述語によって構成されているということがあろう。要は、言葉がむずかしいのである。本来、そのむずかしい術語を一つ一つ修得していくことによってこそ、唯識は了解しうる。このことに留意し、私は本書において、それぞれの術語についてなるべく詳しく解説し、また唯識のものの見方・考え方の基本についてていねいに説明するよう心がけてみた。」