最近のITデバイスは壊れたから買い替えるというばかりではないようです

先ほど久しぶりにWindows 10タブレットを起動したら、Windows Updateの嵐でなかなか終わりません。途中でPINの設定も要求される始末。

これはWindows 8の頃に買ったメモリ2MBのモデルをアップグレードしたもので、動作が遅くて業務には使えません。

ただフルHD(1920×1080ピクセル)のディスプレイはこれしかないので、スクリーンショットが必要になるとき起動することになります。

通常の業務はChromebookか、1280×1024ピクセルのディスプレイをつないだWindowsデスクトップパソコンで不自由なくやれているので、フルHDのWindowsノートパソコンを買う必要性は感じていません。

なぜこのようなことを書いているかというと、先日Apple Developerアカウントで2ファクタ認証というのが必要になるという通知が来たからなんです。

何でもサインインの際に、信頼できるデバイスとしてiPadやMacなどが必要になるのだとか。

私は寝る前に娯楽目的でiPadを利用するのですが、今後は業務でも必要になるのですね。

このiPadのOSはまだ対象内のようですが、将来対象外になったときはサインインのために買い替えなければならないかもしれません。

副業を持つということは心にもいい影響を与えるのかもしれません

メイン業務の傍ら、以前より温めていた少し毛色の違う業務の準備を少しずつ進めています。

数年間は大した利益にはならないと思いますので、気長に構えています。

メインの業務がうまくいかないときなど(というかうまくいかないときの方が多いのですが)、こういうときは複数の事業で成功している人は余裕だろうな、と羨ましく思ってしまいます。

同じことは、副業をしているサラリーマンの方にもいえるのではないでしょうか。

私は会社に所属していた頃、担当しているゲームがマスター納入期限に間に合いそうになくて、胃が痛くなることはしょっちゅうでした。

当時は副業なんてしている暇はありませんでしたが、もし会社を辞めてもすぐに始められる仕事を持っていたとしたら、ずいぶん気が楽だったと思います。

副業や別の仕事なんて考えたこともなかったですし、そういう意味では逃げ場はなかったです。

しかし、副業が当たり前のように話題に上るようになったのはここ数年ですよね。

社会保障制度の先行きが見えず、自分の身は自分で守らなければならないという考え方が浸透したせいもあると思います。

おじさんたちがタバコを吸いながら談笑している風景に昭和を感じていました

今日近所のスーパーに行って、夕食を買って外に出たら雨がしとしと降っていました。

出入り口の隣に設置されている屋根付きの自転車置き場に行ったら、仕事帰りと思しき作業服を着た男性三人がタバコを吸いながら談笑していました。

久しぶりに嗅ぐタバコの臭いとこの状況に、昭和を思い出してしまいました。

私はタバコは吸いませんが、吸っている人が隣りにいても特に嫌悪感のようなものは感じません。

三十年くらい前は、オフィスやお店でタバコを吸う人の姿は普通に見かけていたような気がします。

当時も健康への影響はいわれていたと思うので、吸う人も周りを気にしながら吸っていたとは思いますが。

今思い出したんですが、それよりも前の大学時代、同級生の多くはタバコを吸っていました。

部室でも部活動をしながら吸っていましたし、バンドのメンバーもミーティング中は吸っていた記憶があります。

誰かがいっていたのですが、難しい顔をして「フーッ」と煙を吐いているときって何も考えていないんですよね?

私はタバコを吸わないのでその気持は分かりませんが、でもそういうのは何だかいいなと思っていたものです。

情報が氾濫していなかった時代の決算セールのワクワク感が懐かしいです

今日郵便受けを見たら、ある家電量販店から「本決算特別セール」と書かれた派手なハガキが来ていました。

そういえば最近は「決算大セール!」みたいなCMってあまり見なくなったような気がします。

私が子供の頃は、CMでも新聞広告でもお店ののぼり旗でも「決算」の文字が踊っていた記憶があります。

決算の意味は分からなくても、何かお祭りのような雰囲気を感じていました。

基本的にはいくつかの安い商品を用意して景気のいい飾り付けをして、お客さんの購買意欲を高めようということなんだと思います。

今はインターネットを使えば価格.comなどで最安値の比較ができますし、Amazonや楽天市場に行けば大概安い商品を見つけることができます。

そういう意味では、毎日が決算セールということなのでしょう。

ただ決算セールに喜んで出かけていたときは、もちろん安く買えることを期待していたのでしょうが、お祭りのような雰囲気も楽しみにしていたように思います。

盆踊りや縁日とまではいいませんが、そんな感じだったんじゃないでしょうか。

インターネットもない時代、チラシなどでしか情報を得ることができない人たちが、期待に胸膨らませながら集うからそうなるわけです。

献血ルームの雰囲気も三十年前とはずいぶん変わりました

今日用事で天神に行った際に、時間があったので久しぶりに献血をしてきました。

献血ルーム行くたびにいつも思うのですが、スタッフの方がとても丁寧に健康状態をはじめとしていろいろなことを確認されます。

事故があってはならないので念には念を入れて、ということなのでしょうが、あまりに丁寧に対応されるのでこちらが気の毒になります。

献血の前にはまず健康診断をする部屋に呼ばれ、それが合格すれば血液検査に呼ばれます。どちらも白衣なのでお医者さんでしょうか。

献血の注射の針を刺すときは、チクッとしますので気分を楽にしてください、というようなことを何度かおっしゃるのですが、注射の針を抜くときも同じように何度かおっしゃいます。

献血の直前と直後は注意事項が書かれたパンフレットを見せてもらえますし、献血中は足の運動のパンフレットも見せてもらえます。

コーヒーやジュースやお菓子も自由に飲み食いしていいですし、帰りにお礼の品物ももらえます。

私が献血をするのは、血圧を測ってもらえたり、後日血液検査の結果を送ってもらうためです。大して痛くもないし体調も変わらないので、気が向いたときに寄る感覚です。

なのでこんなに丁寧に対応されると、逆に恐縮してしまいます。

ロボットなどが普及すると「ポツンと一軒家」のような番組は成り立たないかもしれません

夕食時に朝日放送系列でやっている「ポツンと一軒家」というテレビ番組を見ていました。

テレビをつけたらちょうどやっているときが多く、山の中の静かな自然環境が穏やかな気持ちにさせてくれるのでよく見ます。

なかには一軒家に高齢の方が住んでいたりして、食事の買い出しや病院などはどうするのだろうとちょっと心配になるときがあります。

しかし考えてみると、この番組ってGoogle Earthの衛星写真で見つけた一軒家を訪ねて行くという企画ですよね。

こんな精巧な衛星写真が一般の人にも使えるようになって始めて成り立つ番組です。

さらにいえば、スタッフの方が山の中の道なき道をクルマで走行しているのを、ドローンを使って俯瞰で撮影していたりします。

山奥の一軒家を、麓の住人などに尋ねながら探し当てるというアナログな内容と、これらのハイテク機器との対比が面白いなと思いました。

あと何年かすると、家事をするロボットや自動運転車が当たり前になって、このような一軒家に住んでいる人の生活はぐっと便利になるかもしれません。

感情がクラウドを全面的に信頼するようになるにはもう少し時間がかかるかもしれません

いつもはChromebookで仕事をしているのですが、昔から使っている業務用ソフトで仕事をするときはWindows 7パソコンを起動しています。

しかしこのパソコンはメモリが4MBなので、ソフトやWebブラウザを複数起動したら動作が遅くなります。

この業務用ソフトを使う必要はないけれどもWindowsを使いたい、というときには、先日買ったメモリを8MB積んでいるWindows 10パソコンを起動します。

最近気が付いたのですが、Windows 7に保存しているパスワードなどを記載したファイルをWindows 10パソコンで開きたいときは、メモリスティックにコピーして持って行きます。

これは私だけかもしれませんが、クラウドに保存したくないんですね。

仕事の書類は、平気でGoogleドキュメントやGoogleスプレッドシートなどのクラウドに保存しているのに。

メモするときによく使っているEvernoteやGoogle Keepにもパスワードは書きません。

仕事の書類にしろメモにしろ、当たり前ですが、パスワードと同じように人に見られたくはありません。

にも関わらずこの違いは何なのでしょう。

仕事に対して心が前向きになる欲であれば肯定して行こうと思いました

昨日は、仕事を選ぶ際に「好き」で選んでも飽きてしまったときに困る、とはよく聞く話で、私も飽きっぽいので悩んでしまうというお話をしました。

そんなときインターネットで、「自分がどうありたいか」にこだわって仕事を選べば悩むことはなくなる、という記事を見つけたわけです。

これには納得しました。「好き」は飽きるけど「自分がどうありたいか」は飽きません。

たぶん後者は欲望というか本能だからだと思います。

正直、欲望を原動力に生きるというのは、心のどこかがちょっと嫌がっている感じはします。

例えば足るを知らない人が最後にはどうなるかという物語は、子供の頃から折に触れ聞かされてきました。

私は仏教の本をよく読むので、欲という言葉にはやはりネガティブなイメージを持ってしまいます。

一方で人間の三大欲求の「食欲」、「性欲」、「睡眠欲」なんて、否定したら人間の生活が成り立ちません。

そもそも仕事は営利活動ですし、「営利」を辞書で引くと「金もうけ」が出てきます。嫌がること自体おかしなことかもしれません。

それによく聞くのは、欲にしても感情の「怒り」にしても、人間の本能を抑え続けるとろくなことにならない。

心の病気の原因にもなりますよね。

自分がどうありたいかを明確にして仕事を選ぶといいかもしれません

以前からたまに書いているのですが、高齢になったときのために、IT関連以外にもできる仕事のことを考えています。

当然、好きで得意なことであればそれが一番いいのですが、それに加えて仕事として成り立つだけの需要がないと意味がありません。

運良くそのようなものあったとして、あとは仕事として軌道に乗るまで地道に続けて行くことになります。

さらに私の場合はもう一つのハードルがあって、飽きっぽいという性格も考慮に入れなければなりません。

やる前からそんなことを心配してもしょうがないのですが、飽きっぽい性格の人にとっては結構深刻な悩みなのです。

子供の頃のぼんやりとした記憶なのですが、保育園の近くにオルガン教室があって、同じ園の園児が通っていたためか私も習い始めました。

確かすぐに辞めてしまったのですが、その教室の発表会を見る機会があって、一緒に通っていた園児が演奏しているのを見て、親が「あなたも続けていたら○○ちゃんのように弾けるようになったのよ」といわれたのを今でも覚えています。

それ以降、絵の教室も習字の教室もどれも続きませんでした。

しかし人間は飽きるようにできているみたいなので、私と同じような悩みを持っている人は結構多いんじゃないかと思います。

通勤時間帯に空いているバスを見て軽い衝撃を受けるのはトラウマのせいだと気づきました

夕方近所のスーパーに夕食の買い出しに行くのですが、国道に面しているのでよくバスを見かけます。

私が学生の頃は地下鉄も通っていなくて、中心街に出るための交通機関はこのバスしかありませんでした。

この通りのバスは利用者が多いことでも有名で、ブログでも何度か書きましたが、学生街や福岡ドーム、福岡タワーが周辺にある西新という街を経由して天神に至る路線なんですね。

通勤、通学の時間帯になると、渋滞でバスは動かないは乗客は満員でギュウギュウ詰めだはで、いつも大変な思いをしていました。

西新駅よりも前のバス停で降りて歩いたことが何度もあります。

そんな路線のバスが、今は乗客が少なくてスカスカなんですね。

その光景を見るたびに軽い衝撃を受けます。

交通量は相変わらず多いので、より一層乗客の少ないのが目立ちます。

しかし、なぜバスを見るたびに軽い衝撃を受けるんだろうとふと考えたんですが、多分トラウマのようになっているんじゃないかと思い当たりました。

思い返してみると、人の入る隙間のないくらい混んでいる車内で、渋滞でバスが全く動かずにしばらく停止していることはしょっちゅうでした。