凶の結果が出たときに易経を学んでいてよかったと思うことがあります

易経を覚えるために、毎日「今日はどのような日になるでしょうか」と占い、解説を読んでいます。

今日出た卦(か)は「地火明夷(めいい)」の上爻(こう)。

卦辞は「明夷は、艱貞(かんてい)に利あり。」

本田濟著「易」(朝日選書)によると、「太陽の明るさが傷つけられるという意味で明夷(明やぶる)と名付ける。 (中略) 艱難を自覚して、苦しみつつ正道を守るときのみ利益があるという。」とあります。

上爻の方は、「初めは天に登るばかりの高位ー四方の国を照らすべき高位にあるが、人の明を夷(やぶ)るようなことばかりするので、ついには自分を夷(やぶ)って、革命の旗の下に命を落とし、地に埋められる。」

ひどいいわれようです。

銭天牛著「すぐに役立つ銭流「易経」」(棋苑図書)には「大凶」とあります。

しかし易のどの解説書を見ても、このような悪い結果が出ても受け入れるようにと書いてあります。月の満ち欠けのように、いいときもあれば悪いときもあると。

私は「占い」ということを抜きにして、このような考え方にとても影響を受けました。

今日は打ち合わせがあるのでこりゃ気をつけねばと思ったのですが、それと同時に昔のことを思い出しました。

ザギトワ選手のニュースが自分とはかけ離れた世界の話だったので衝撃を受けました

フィギュアスケートのザギトワ選手が活動休止か?引退か?というニュースが飛び交っています。

まだ若干十七歳。十七歳といえば日本では高校生。引退どころか、まだ社会のスタートにも立っていない年齢です。

確かに彼女は平昌五輪や世界選手権などで金メダルを取り、頂点を極めたわけで、本人から「やりとげた」といわれれば誰も反論できません。

私が衝撃を受けたのは噂されている引退理由です。ロシアのスケート界の若年化が進んでおり、年下の台頭が決断の背景にあるということ。

このコメントって、ベテラン選手がよく口にするフレーズじゃないですか。

どちらにしろ、このように若くしての引退はスポーツ選手特有のことなんだと思います。

私がよくお邪魔しているASK アクティブシニア交流会の会員さんは、平均年齢七十代。定年まで大企業に勤められた方が多いです。

みなさんお元気なので、この方たちならば六十代でも十分現役で頑張れたんじゃないかな、とも思えます。

ただ五十代の私でもそうですが、三十代、四十代のように馬力はありませんし、頭の回転もかなわないと思います。

なので六十歳定年も、若い人に活躍の場を譲るという意味ではしょうがないことなのかもしれません。

管理者が作成したチャットルームに重要な情報を転送することが重宝がられています

自社開発のチャットアプリ「楽々談話室」をある団体でテスト導入していただいています。

この団体は、イベントなどの告知はメールで、その受け付けはホームページのメールフォームで行っているのですが、同じメールを「楽々談話室」のチャットラインに表示し、メールフォームの代わりに「楽々談話室」の出欠アンケート機能でも受け付けできるようにしています。

テスト導入していただいた当初は、実際に使っていただけるか心配だったのですが、たまにチャットに発言がありますし、ほんの一部の方ですが、出欠アンケート機能を使っていただいています。

導入して日も浅いので、どのような使い方がされて行くかは、これから少しずつ分かってくると思います。

今のところ重宝がられていると感じるのは、正規のメールアドレス以外に送信されてくるメールを、役員専用の部屋のチャットラインに転送すること。

例えばこの団体のメールマガジンは、G Suite上にある会員名簿のスクリプトから配信しているため、このメルアドに直接返信しないように明記しているのですが、どうしても返信する方がいらっしゃるんですね。

イベントの出欠をとるメールフォームに誘導するメルマガなのに、そのメルマガに直接「出席します」と返信されると、役員の方が分かりません。

準備ばかりしてやるべきことに取り掛かれないので具体的な計画を立ててみました

今まで何度も、「しばらく本を買わずに、今まで買った本を熟読しよう」という誓いを立てるのですが、つい本を買ってしまいます。

ここ数年お酒もそんなに飲みませんし、他に買いたいものもないので、本代くらいは何とかなるというのもそれに拍車をかけているんだと思います。

年をとってからやりたい仕事の資料として、必要な本を買い溜めていたというのもあるのですが、重要度の高いものから揃えているので、いつまでたっても重要度の高い本が熟読できません。

確かに専門書は絶版になりやすいので、必要そうな本は今のうちに手に入れておかなければ、という理由もあるにはありますが、今のところ資料は十分揃っています。

つい買ってしまうのは、子供の頃から「必要なものを見落としているんじゃないか」と不安になる性格のせいだと思います。

それに加え、あっちフラフラこっちフラフラと興味が移ってしまって、大事なことに集中できないというのもあります。こっちは逃げの性格ですね。だから学校の成績は悪かったです。

以前は「人生の残り時間が少ないので、重要じゃない本は集めない」などと自分に言い聞かせてみたのですが、そのような漠然とした内容では、欲しいという誘惑の方が勝ってしまいます。

なので今回は、もう少し具体的に考えていたのです。

唯識仏教をもとに瞑想を解説するアプローチにちょっと感動しています

ティク・ナット・ハンさんの「ブッダの〈呼吸〉の瞑想」(野草社)という本に書いてあった瞑想法がとてもよかったので、瞑想以外の本も読んでみたくなって、「死もなく、恐れもなく」(春秋社)という本を買って読んでいました。

縁起のことや無常のことなど、仏教の知識についてとても分かりやすく書かれています。

パラパラとページをめくっていたら、「走るという習気(じっけ)」という題の文章がありました。

ティク・ナット・ハンさんがインドに行ったときの話で、旅のガイドの方が低い身分だったため、怯えるように行動していたというのです。

「このような生活をつづけていくと不安という習気が巨大化していく。」

「習気」は唯識仏教のことばですね。

意識などの活動は潜在意識の阿頼耶識に刻印(熏習(くんじゅう))されるのですが、そのことが竹村牧男著「知の体系」(佼成出版社)には次のように説明されています。

「その、阿頼耶識に熏習されたものを、熏習された気分ということで、習気と呼びます。その刹那滅の相続の中で、絶えず次の現在の阿頼耶識に伝えられていくわけです。」

そしてその習気が、次の活動に影響を与えることになる。だからこそ、そのような習気を将来に伝えていく必要などないのですね。

年をとると性格が変わったりストレスが減ったりすることに自分でも驚いています

最近、ストレスで夜歯ぎしりをすることがほとんどなくなりました。

三十代前半に体調を崩して精神科に通院していた頃が、一番ひどかったと思います。

朝起きたら顎が痛くなっていて、歯茎からよく血が出ていました。

今思うと向いていないジャンルの仕事でしたので、相当無理をしていたと思います。

担当していたタイトルも多く、お金や人やスケジュールの管理など、やることもたくさんありましたし。

書いていて思い出したのですが、ある製品の納期が迫っていて、開発チームが会社に泊まり込みで仕事をしていたとき、仮眠をしていたプログラマーが歯ぎしりをしていました。

それを見て、「ああ、自分も寝ているときこうやっているんだな」と思ったものです。

今も当時と同じITの仕事ではありますが、一般的なスマホアプリやパソコンソフトの開発なので、精神的に無理をしている感じはありません。

それと歯ぎしりとは別に、精神科に通院していて仕事がほとんどできないときがひどかったのですが、何かにつけてムッとしていました。

一生治らないんじゃないか、一生仕事ができないんじゃないか、などと想像してしまって、不安でたまらなかったんですね。

ユングが易を利用していたように易に心理療法を利用してもいいような気がします

昨日はユングの「心理療法の実践」(みすず書房)の中で、ユングが医師を前に講演をした章についてお話しました。

この章は「医学と心理療法の間に存在する、病理に関する見解の違い」について書かれています。例えば次のようなことです。

「心理療法家であれば誰しも、もしも何かができるのならば、意識的にせよ無意識的にせよ理論から離れて、時にはその人が持つ理論の中にはまったく存在しないあらゆる手段をとる場合があるはずです。」

これを読んで、ユング派の人たちが易を利用していたというのも分かる気がする、とも書きました。

私は心理療法家ではありませんが、ユングや河合隼雄さんの心理療法に関する本を読むのが好きです。

そんなことを考えていたら、逆に私が易占をやるとき、心理療法のアイデアを利用してもいいのではないかと思い付きました。

銭天牛著「すぐに役立つ銭流「易経」」(棋苑図書)には「易者の中には、失せ物が得意とか、株が得意とかいう風に、得意の分野が決まっている人がいますが、それはイメージの活動する分野の特性を示しています。」とあります。

易は、よく経営者の方が経営に関する吉凶を尋ねるときに使われている、みたいなことを聞きます。

ユングの心理療法の本を読むとユングが易を利用した理由が分かるような気がします

今日C・G・ユング著「心理療法の実践」(みすず書房)の「医学と心理療法」という章を読んでいました。

これは「1945年5月にチューリッヒで行われたスイス医学アカデミー評議会での講演」を収録したものです。

なので、「医師の方々を前にしてお話しするとき、私はいつもある種の難しさを覚えます。それは一般的な医学と心理療法の間に存在する、病理に関する見解の違いに橋渡しをすることの難しさです。」という書き出しから始まっています。

この章は、その「見解の違い」を説明するために費やされているのですが、以下に一部を抜粋してみます。

「そして最後に治療の中で、医学一般に当てはまるものの見方との最大級の違いが明らかになります。身体疾患であれば、診断をもって特定の治療方針も確定する一連のものがあります。ある病は決まった手段でしか治療できません。けれども精神神経症には、それとはまったく逆のことだけが当てはまるのです。 (中略) ここで注目すべきなのは、どの治療行為も何らかの神経症に関しては望ましい効果を発揮しうるということです。 (中略) 心理療法家であれば誰しも、もしも何かができるのならば、意識的にせよ無意識的にせよ理論から離れて、時にはその人が持つ理論の中にはまったく存在しないあらゆる手段をとる場合があるはずです。」

私にはティク・ナット・ハンさんのマインドフルネスがとても向いているようです

昨日は易経の「艮為山(ごんいさん)」という卦(か)のお話をしました。

河村真光著「易経読本」(光村推古書院)の解説によると「世の事象がいかに目まぐるしく動いても、己の心さえ艮(とど)まるべき処に止まっていたら、振り回されることも、また迷うこともない」というもの。

仏教のお坊さんがいっているようでもあり、私はとても好きな卦です。

しかし一方で、実際に怒りがわいたり悲しみに沈んだりしたときは、心の状態を何とかしたいので、易経の知恵で解決できるかといえばちょっと違うような気がします。

易経や陰陽五行は、世の中の仕組みや人間の資質などを知るには最適だと思っています。

心の方は、若い頃に神経症で悩んでいたとき、坐禅の本を買ってきて坐禅の真似事をしたのですが、そのときは効果がありそうだと思ったものの、そのあとが続きませんでした。

数年前には瞑想入門を買ってきて、こちらは細々と続けています。

そして先日、ティク・ナット・ハンさんの「ブッダの〈気づき〉の瞑想」と「ブッダの〈呼吸〉の瞑想」(共に野草社)という本を買ってきて試したところ、私にはこれがとても効くようなんですね。

「息を吸いながら○○、息を吐きながら○○」などと唱えながら呼吸の瞑想をするだけです。

易経にも仏教のマインドフルネスに通じるところがあるように感じています

易経を覚えるために、毎日「どのような日になるでしょうか」と占って、出た結果の解説を読んでいます。

今日出たのは「艮為山(ごんいさん)」。

卦辞には「其の背に艮(とど)まりて、其の身を獲ず。其の庭に行きて、其の人を見ず。咎なし。」とあります。

この卦は艮(ごん)卦が上下に並んでいる純卦といいます。

このような上下が同一の純卦は他に七つあるのですが、それらには四徳といわれるめでたい徳性のどれかが備わっているのに、この艮為山だけは一つもありません。

本田濟著「易」(朝日選書)はその理由について、清の王夫之の説明を紹介しています。

「それは我を忘れ人を忘れるという、この卦の心境が、ともすれば老荘のような逃避的退嬰的態度に陥る危険があるからだ、と。」

それでも、朱子が「最も好(よ)き卦」というように、私も過去にこの卦が出たときは何だか共感できる気がしていました。

今回、先日購入した河村真光著「易経読本」(光村推古書院)の解説を見て、その理由が分かりました。