作業用のスクリプトとは違い、喋ってくれるスクリプトは書いていて感情が入ってしまいます

昨日はPython 2で書かれたOpen JTalkのサンプルコードを、今後のためにやったことのないPython 3で動かそうとして、案の定よくわからなかったところまで書きました。

今日はメモリも豊富でサクサク動くWindowsのCygwinで、昨日のサンプルを試してみました。

いくつかのエラーは取れたのですが、「ImportError: No module named request」というエラーがどうしても取れません。

一般的にはPython 2で「import urllib2」としていたところを、Python 3では「import urllib.request, urllib.error」とするようで、必要なライブラリも揃っているようなのですが。

時間もないことですし、Cygwinを諦めて以前ブログにも書いたRaspberry Pi DesktopをインストールしているEee PCでやってみることにしました。

こちらではCygwinで出ていたエラーは出ません。すんなり天気予報のAPIも取得できました。

昨日はOpen JTalkが文字化けしたテキストを読み始めたのですが、原因はencode('utf-8')している部分でした。

Windowsは古くからの環境が残っているので大概のことならなんとかなりそうな気がします

今日はRaspberry Piで天気予報のAPIを取得してOpen JTalkで喋らせてみようと思い、インターネット上にある情報をチェックしていました。

ちょっと困ったのは、サンプルがPython 2で書かれていたりPython 3で書かれていたりすること。Python 3はやったことがなく、かといってPython 2は簡単なツールしか作ったことがありません。

それでもこれからはPython 3で統一しておいた方がいいかなと思って、Python 2で書かれていた簡単なサンプルをPython 3に書き換えようとしていたら、まあ予想通り上手く行きません。

ライブラリのインポートからエラーで違うといわれてしまう始末。

めげずにいろいろやっていたら、文字化けしたテキストをOpen JTalkが読み上げ始めました。

こりゃPython 3の基本的なことだけでも抑えておかなきゃダメですね。

ということで、Cygwinを使おうと思い立ってWindows 7を起動しました。メモリに余裕があるので調べるためのWebページもたくさん開けます。

このようにパソコンで急に何かをやろうとするとき、Windowsは昔からの豊富な環境が揃っているので頼りになります。

今後いろいろな形態のAI機器に接するにつれて人間の心理が分かってきそうで面白いです

もう1、2週間前になりますが、Raspberry Piで音声認識をさせるために、Juliusの簡単な辞書を作ったことを書きました。

次の段階は、認識した言葉を取得して天気予報などを喋らせることだと思いますが、それにはモジュールモードなるものがあるとのこと。

今日それをやってみました。

みなさん考えることは同じで、インターネット上には豊富に情報があります。

何でもJuliusの起動オプションに-moduleを付ければいいのだとか。Juliusがサーバーとして動作し、認識結果をXMLで送信してくれるようになります。

ネット上にあるサンプルを元に、先日作った辞書を読み込んで試してみたのですが、ほとんど上手く行くものの、何度かに一回はParseErrorが出てしまいます。

どうも余計なXML文を読み込んだときに吐き出すエラーらしい。

まあいっか。他に作業があることだし。今日はここまでにします。

ネットを見ていると、Raspberry Piに「ちゃん」づけしている人が結構いるようですね。気持ちは分かります。

強すぎる想像や妄想という性質だからこその喜びや感動があると思います

以前にも書きましたが、仕事などに役立つ自分の強みを教えてくれるストレングス・ファインダーをやってみて、五つのうち最初に来たのが「戦略性」でした。

物事に対する特殊な見方。あなたは常に「こうなったらどうなる?では、こうなったらどうなる?」と自問しています、というような説明があります。

確かに私にはそういうところがあるのですが、ストレングス・ファインダーをやった人が「他の人も自分と同じだと思っていた」というように、指摘されるまでは意識しませんでした。

しかしこのような性癖は、いつも何かを想像している人にはありがちなことではないかとも思います。なかには取り留めのない妄想になっている人もいるかもしれませんが。

このような資質が仕事に役立つ部分もあるのでしょうが、想像や妄想は極度の恐怖感や不安感のようなマイナス面も生み出します。

私もそうでしたが、社会生活に支障をきたすほど苦しんでいる人は、本やインターネットの情報に何らかの助けを求めます。

よく見かけるのは、「想像力のある人は芸術家などのクリエイティブな仕事に向いています」というように結んでいるWebサイトです。

もちろん芸術家は想像力がないと作品は生み出せないとは思いますが、誰もが芸術家になれるわけではありません。

恐怖感や不安感を助長する想像や妄想の力も悪いものではないなと思っています

本などの情報で、恐怖感や不安感のような感情は妄想だということは、頭では理解しているつもりです。

禅に「莫妄想(まくもうぞう)」という言葉もありますね。妄想しないで今やるべきことをやりなさい、という意味のようです。

一方で、このような感情は人間が危険を察知して生き延びるために必要な能力であって、本能を抑えることは難しいとも聞きます。

そうはいいつつも、ほとんどの人は問題なく社会生活ができているのであって、そのような感情とうまく折り合いをつけながら生活しているわけですね。

しかし、中には社会生活に支障をきたすほど折り合いをつけられない人もいて、このような症状は不安障害とか神経症などと呼ばれているようです。

私も経験者なのでその辛さは分かります。

原因はいろいろ考えられるのでしょうが、想像力というか妄想力というか、それがとても強いと子供の頃から感じていました。

恐怖感や不安感のような感情は想像や妄想が助長する、というようにもいわれています。

最近、子供の頃からの自分の考え方や行動を省みて、この想像や妄想が思いの外大きく影響しているなと思っています。

自分を省みて年を取ると本来の自分に戻るというのは本当だなと思いました

今日はGoogle勉強会のあと、参加されていたASK アクティブシニア交流会会員の方々と昼食に行きました。

その席で、ある会員さんが不要になったものをリサイクルショップで買い取ってもらおうとしたら、びっくりするほど安い値段だったので、売るのをやめたというお話をされたんですね。

それを聞いていた他の会員さんたちが、そういうときはメルカリで売ればいいですよとアドバイスされていました。

それを見ていて驚いたのですが、アドバイスされていた四人の方々は70代です。自分でやられている方もいてとても詳しい。

私はといえば、メルカリの名前は聞いたことがあるのですが、どのようなものか知りませんでした。

こういう人間がGoogle勉強会の講師をしているのですから、どこかおかしいですよね。

とはいえ、やっぱり驚くべきことはASK会員の方々の好奇心の強さです。

以前も書いたと思いますが、私の親が70代のときはこのような新しいことに興味を持ってはいませんでしたし、親戚の叔父さんたちも同じような感じです。

ASKさんは、スマホの販売を手がけている若い方が講師をされているスマホ愛好会という勉強会もやられていて、そこで話題のスマホアプリをインストールして新しい情報を吸収されています。

クライアントさんとコンサルタントさんの打ち合わせで営業の難しさを感じました

今日、あるクライアントさんと企画提案をされているコンサルタントの方の打ち合わせに、システム部分についてアドバイスして欲しいと要請があり参加してきました。

そのクライアントさんは、自社開発システムを売り込むためにかなり営業に回ったが、なかなか成果が出せなかったために、コンサルタントさんに戦略を見なおしてもらっていたのです。

提案内容を聞く限り、打ち出し方を大幅に変更するだけで、システム部分にはほとんど手を加えることなく行けそうでした。

私には、クライアントさんがそれまでやってきた営業もとても社会のニーズを捉えているようで、それでも上手く成果が出ないことに営業の難しさを感じました。

コンサルタントの方が提案された切り口も、これまた時流を捉えていて、確かに必要とする組織はあるだろうなと思える内容です。

私はこのような提案型の営業は苦手で、というより営業全般が苦手なのですが、両社のお話にただただ頷いて聞いているだけでした。

私もこれから自社開発のアプリを売って行かなくてはなりませんし、ニーズがあることは確信しているのですが、このようなお話をお聞きしていると自信も揺らいでしまいます。

AIと心のことや運命のことについて語り合う日が来るような気がしています

ここ数日、AIと唯識と易経をテーマにお話を続けています。

唯識は1600年ほど前に人間の深層心理を発見し、その思想を今に伝えていますし、易経は2000年以上前から人間の生き方の書として、現代でも私たちの人生観に影響を与えています。

「窮すれば通ず」や「君子豹変す」のような、易経が出典の言葉を聞いたことがあると思います。

両者がこれほど長きに渡って人々に受け継がれてきたということは、心や運命に関して唯識や易経を拠り所にしてきた人達がいたということだと思います。

将来AIが人間に近づいたとき、人々はAIを人間としての評価するかどうかの基準として唯識や易経を使うかもしれませんし、それ以前にAIが唯識や易経を学習して自身に取り入れることがあるのかもしれません。

もしそういうことがないとしても、AIが人間に近づいて何かしら悩みでも持つようになったときに、人間のお坊さんから唯識の教えを聞いて坐禅に勤しむとか、人間の易者さんから易占をしてもらうとか、そのようなことが起きてくるんじゃないかと思います。

いやいや、それもないですか・・・。

AIと心と運命の専門家がいらっしゃらないか気に留めつつ自分なりに考えてみます

一昨日からAI、心、運命の三つを一つのテーマとして考えているということを書いてきました。

ここでも「心」は仏教の深層心理学といわれている唯識、「運命」は人間の生き方の書ともいわれる易経のことです。

心と運命がテーマなどというとちょっと偉そうですが、そんなに高級な内容ではなく、遠い将来人間と全く同じAIが誕生するとすれば、そのAIは人間と同じように唯識や易経を拠り所とすることができるのかという、私にとってはとてもシンプルな問いなのです。

唯識は「心所(しんじょ)」といって、心の働きを五十一種類に分けて詳細に分析していますし、易経は64種類のシチュエーションにおける人間関係と、その一種類一種類の中に六つの物語、つまり64×6=384の物語があります。

  • 易経ではこの64を64卦(か)、384を384爻(こう)といいます。

21世紀の現代でさえ人の心や運命を読み解くことに四苦八苦しているのに、AIの心や運命は唯識や易経で読み解けるのか。

それ以前にAIはどこかの時点で唯識や易経を学習することもあるでしょうから、そうなったときにどう解釈し、どのように自分の中に取り込んで行くのか。

AIと心と運命が自分の中でどのように結びついているか説明してみます

昨日は最近気になっているAIと、以前より興味を持っていた心と運命の三つが、自分の中で一つのテーマとして結びついたことを書きました。

ここでいう「心」は仏教の深層心理学ともいわれている唯識、「運命」は人間の生き方について書かれている易経です。

最近さわり始めたシングルボードコンピュータのRaspberry Piが面白いと感じて、これでAIエンジンを動かしてみるとますます面白いだろうな、と想像していたときこのテーマを思いついたんですね。

この三つは一見何の脈絡もないようですが、自分の中では大いに関係しています。

まず唯識ですが、私は河合隼雄さんを通してユングの深層心理学にとても興味を持ちました。

その深層心理学を提唱したのはユングの師匠、フロイトでしたが、そのフロイトの1500年も前にインドで唯識という深層心理学が唱えられていました。

私は坐禅にも興味を持っていたので、その繋がりで唯識に行き着いたんですね。

次に易経ですが、ユングの提唱した概念の一つにシンクロニシティ(共時性)というのがあります。何の関係もない二つの事象が意味のある偶然の一致を示すこと、と説明されています。