自動車メーカーに強い企業風土を感じています

自伝を読んだわけではありませんので詳しいことは分からないのですが、Microsoftの創業者ビル・ゲイツは学生の頃からプログラムばかり書いていた、という話を聞いたことがあります。

一方でAppleの創業者スティーブ・ジョブズは、高校生の頃にブルー・ボックスという、電話をかけることができる装置を売って儲けていたようです。こちらは事業家ですね。

根っからの開発者であるビル・ゲイツにとっては、パソコンとそのソフトウェアが最も能力を発揮できる舞台であって、スマートフォンやテレビゲーム機のような分野では、それが十分に発揮できないんじゃないかと思います。

もちろん、Microsoftが何かの分野に参入するときは莫大な資金を投入するでしょうから、ある程度の成功を収めることはできるのかもしれませんが。

このように考えてしまうのは、私は昔からクルマが好きで、この世界は企業風土が大きく影響していると思うからです。

私はスーパーカー世代の最初に入るかは入らないかぐらいの年齢で、小学生の頃からクルマが好きでした。

かれこれ40年以上、クルマの変遷を見守ってきたことになります。

そこで感じるのは、企業のカラーというのはあまり変わらないということ。

創業者の作った企業風土はいつまでも影響するように思います

MS-DOSはあくまでも事務用パソコンというイメージで、その代表が、ワープロソフトの一太郎や表計算ソフトのLotus 1-2-3だったように思います。

音楽をやっている人たちの間ではApple Macintoshが憧れのパソコンで、Mac OSのマウスで操作するユーザーインターフェースは、圧倒的な洗練度を感じていました。

OSは確かSystem 6と呼ばれていた時代です。

そうこうしているうちに、いつの間にか職場のゲーム開発会社にWindows 3.1パソコンが導入され、ワープロはWordに、表計算ソフトはExcelに席巻されて行きました。

もうパソコンの世界は、MicrosoftのWindowsとOffice一色という感じでした。

WindowsにMac用の有名な音楽ソフトやお絵かきソフトが移植されて行ったので、そのうちMacを使う人はほとんどいなくなるんじゃないかと思っていました。

Windows 98やWindows 2000の時代です。

しかし、そうはなりませんでした。

今でもクリエイターはMacを使っている方が多いですし、アプリ開発者や学生など、多くの方がMacを使っています。

Windows 10 Mobileの開発終了に企業風土というものを感じてしまいます

MicrosoftのWindows 10担当副社長ジョー・ベルフィオーレさんという方が、公式Twitterアカウントで、スマートフォン「Windows 10 Mobile」の新規開発をやめると発言したそうです。

まだMicrosoftからは正式に発表されていないようですが、これは事実上の開発終了宣言ということのようです。

以前はWindows Phoneと呼ばれていて、KDDIからも発売されており、iPhoneやAndroidに続く第三の勢力と目されていたのですが、やはりこの2強の牙城を崩すことはできませんでした。

Microsoftのことですから、とてつもない開発費や大量の開発部隊が投入されたはずです。どうしてこのような結果になったのでしょうか。

私は専門家ではありませんので分析などはできません。

ただ私は、どうしても企業風土というのを感じてしまうのです。

学生の頃ゲーム開発会社でアルバイトをしていたとき、パソコンでSE音をコンパイルする作業をCP/MというOS上で行っていました。

それがいつの間にか、パソコンのOSはMicrosoft社製のMS-DOSに変わっていたんですね。

一つの感情でも幸福感が高まるものとそうでないものがありそうです

昨日はネガティブな感情であっても、自分にとって価値を感じることのできる感情であれば、幸福感が高まるらしいというお話をしました。

ふと考えたのですが、怒りや悲しみや不安のようなネガティブな感情といっても、その一つ一つの感情にはいくつかの種類があるんじゃないでしょうか。

怒りという感情一つとってみても、自分が価値や意義を見出せる怒りと、見出せない怒りがあるということですね。

例えば、義憤のような怒りであれば幸福感や満足感は高まるが、外出先で持ってきたはずのものを忘れてしまって自分に腹が立つ、というような怒りにはそのような効果はない、というような。

私は少し不安症でもあるので、物心ついたときから不安と付き合ってきました。

私のような人と、元々それほど不安というものを感じない人を比べたら、不安というものに対する定義も違うでしょうし、不安症の人は、変な言い方ですが、不安のバラエティも豊かだと思います。

その豊かなバラエティの中から、自分が価値や意義を見出せる不安や、そうでない不安など、いろいろな種類に分類することができそうです。

ネガティブな感情も自分にとって価値があれば幸福感が高まるらしいです

先日ネガティブな感情に対する思い込みを覆す、ちょっと面白い記事を見つけました。

Journal of Experimental Psychologyに発表され、その関係者が語っているところによると、怒りや恐れのような不快な感情であっても、自分にとって価値や意義を感じられる感情であれば、それを受け入れることで幸福感が高まる、というようなことらしいです。

確かに今まで生きてきて、つい怒ってしまって友達と疎遠になったり、会社の同僚と気まずくなったりしたことがあるため、経験上、怒りは抑えなければならないと信じ込んでいました。

その一方で、怒りのような、人間にとって自然な感情をいつも抑えつけるのは、心にはよくないのは分かります。

悲しいときや落ち込んだときは、同じように悲しい音楽を聴くことで、それが心の慰めになって気持ちがやわらぐとはよくいわれることです。

もちろんネガティブな感情が度を越して、精神的な病に陥ってしまうのは本末転倒ではあります。

しかし先日、あるニュースを見ていて、「自分があんなことをされたら」と想像してムカッときたとき、この記事のことを思い出して「あれ、今怒ったことで少しスカッとしているかもしれない」と思ってしまいました。

人の頭の中をのぞいてみたいという気持ちはあります

自分以外の人が私の頭の中をのぞいたら、その人が経験したこともない情景が広がっていて、びっくりするんじゃないかとお話しました。

その逆に、私は他の人の頭の中はどうなっているんだろう、と想像することがあります。

テレビでたまに、第一線で活躍されている編曲家やスタジオミュージシャンの方が、即興で演奏されるのを見ることがあります。

あれほど高いレベルで演奏できるということは、日頃からとても真摯に音楽に向き合われているのだと思います。

そのようなときに、彼らの日常はどのような頭の中なんだろう、とシンプルに興味を持ちます。

彼らの頭の中を一日体験できるとなると、自分とはまったく違っていて、愕然とするんじゃないかと思います。

これはプロの漫画家にしろ、将棋の名人にしろ、プロ野球の選手にしろ、同じでしょう。

そのようなプロフェッショナルの方ばかりではなくて、普通の人に対しても、のぞいてみたい気持ちはあります。

例えば自分の肉親など、身近な人たちとたまに言い争ったあとに、「まったくあの人の頭の中はどうなっているんだろう」と考えるときなどがそうです。

自分の心の状態を覚めた目で見ていることがあります

先日もHSP(Highly Sensitive Person)のことを書きましたが、過敏性や不安症などは、重症であれば日常生活で何気なく繰り返される行為でもストレスを感じています。

例えば強迫性障害であれば、手を洗うのがやめられないとか、ドアの鍵をかけたか何度も確認するとか。

それら一つ一つがストレスで、慣れることがないんですね。

自分もそのような傾向を持っていますので、このような気質を「持っていない」人たちが、日頃どのような場面でストレスを感じているのか、あまり意識したことがありませんでした。

糸井さんの文章を読んでそのことに気付いたわけです。

強迫性障害も、重い症状の方になると、何時間も同じ行為に囚われるようなお話を聞きます。

私の場合はそこまでひどくはありません。

いったん仕事を始めたら仕事に集中しますし、面白いテレビを見ているときや好きな音楽を聴いているときなど、時間を忘れることもあります。

このように自分が集中しているときは、向いていることや、好きなことをしているときなのだと思います。

少数派ではない人の心を知る機会がなかったことに気付きました

昨日は糸井重里さんがほぼ日刊イトイ新聞で、「「ストレスの利用法」というようなもの」について書かれていた文章の一部をご紹介しました。

糸井さんといえば、私が学生の頃から、コピーライターとして第一線で活躍されていましたし、テレビの司会などでもよくお見かけしていました。

ほぼ日刊イトイ新聞に活動の拠点を移されてからも、積極的に活動されていましたので、私が存じ上げないだけかもしれないのですが、長い間健康を保たれているように思いますし、何より人とのコミュニケーション能力の高さは、ただただ次元の違いを感じるばかりです。

そのような社会の仕組み作りの一翼を担われている方が、ストレスについて発言されていたので、とても参考になりました。

当たり前のことなんでしょうが、ストレスをちゃんと感じていらっしゃるんですよね。

このような方の感情に触れる機会があまりないので、とても印象に残りました。

昨日も書きましたが、私は少数派と思われるような人たちに関する本や記事を目にすると、興味を持つことが多いですし、自分の中にその人たちの心を理解しようという気持ちを感じます。

その一方で、多数派と思われるような人たちの心を知る機会は、そういえばなかったなと気付きました。

少数派の人たちの心を理解しようという気持ちはあります

ニューロダイバーシティ=脳の多様性という概念を知ったところから、結構長い記事になってしまいました。

私は子供の頃から、社会に対して生きづらさを感じているところがあったので、このような概念が紹介されている記事を見かけると、つい夢中になるんですね。

自分の場合は、パニック障害からウツの症状に陥ってしばらくは、社会生活ができない期間もあったのですが、それが長期化しなかったことはありがたかったと思います。

しかしそのような資質を持っていることは今でも自覚していますし、先の記事のようなものを見かけると興味を持つ自分に気付くので、少数派といわれる人たちの心は、分かるとはとてもいえませんが、理解しようという気持ちはあります。

一方で、多数派といわれる人たちの気持ちですが、そちらの方はあまり理解できるとは思えません。

もちろん「少数派」と「多数派」で二つにくくるのは、乱暴すぎるのは分かっています。

少なくとも人生のレールと呼ばれる場所、学生ならば学校で、社会人ならば職場で、それぞれ何か大きな違和感や障害(人とコミュニケーションが取れないなど)を感じて、長期間家に引きこもるとか、そのレールを外れた世界で生活するような人は、多数派ではないように思います。

自分の安全基地が機能するかどうか観察中です

私も安全基地を自分なりに設定してみました。

やっぱり条件としては、自分の好きなこと、やっていて心地いいこと、というのはいえるんじゃないかと思います。

日常生活において、長時間向き合っていてもそれほど疲れを感じないものや、いつ向き合ってもそれなりに没頭できるものですね。

私の場合、前者はコンピューターを使った作業やこのブログのように文章を書くこと、後者は唯識仏教や民俗学のような人間の深層心理に関するものかな、と思っています。

昨日も書きましたが、このような自分の資質は、何が安全基地かを一番知りたかった20代、30代には分からなかったと思います。

ちなみに、唯識というのは仏教の深層心理学です。

唯識説を唱えたのは瑜伽行(ゆがぎょう)唯識学派という一派で、瑜伽行というのはヨガの修行のことですね。坐禅や瞑想に繋がるもののようです。

岡田さんは本の中で、マインドフルネスの有効性を指摘されていますが、このマインドフルネスも坐禅や瞑想から仏教的な修行の要素を取り除いたものですね。

以前にも書きましたが、私も坐禅や瞑想の真似事を、ほんの数分間やったりやらなかったりしていたのですが、これを機に毎日続けようと思いました。