IT製品は高価なものであっても将来価値が出てくることはなさそうです

お金があれば昔のもので価値のあるものをコレクションしたいと思いますが、あまりにも歴史的に価値のある名車や楽器の名器になると、気持ちがちょっと引いてしまうということを昨日書きました。

次の世代に引き継がなければならない義務が生まれてしまうと、純粋に所有する喜びは減って行きそうです。

「所有」という意識だからいけないんですかね。「投機」という意識に変わる可能性もあるのですから。

使う喜びのために手に入れる、という意識でいることが健全なのかもしれません。

それでいくと、パソコンやスマートフォンのようなIT製品は新製品のときが一番高価だと思います。

以前ほどCPUのクロック数やメモリやハードディスクドライブの容量の進化は急激ではなくなりましたが、それでも新品を買って半年もすると、最新の機種に比べて見劣りするんじゃないでしょうか。

まだ十分使えるのに、セキュリティなどの問題で使われなくなったWindows XPパソコンなんて記憶に新しいところです。

今思い出したんですが、プリンターなんてその最たるものですよね。

名車や楽器などの名器があまりに価値が高いと所有する喜びはわかないかもしれません

数日前のニュースですが、富山県の国道でトヨタ2000GTが倒木の直撃を受けて大破し、所有者と運転手の方が県を相手に車代や治療費などの損害賠償を求め訴訟を起こしていたようですが、それが和解する見通しになったそうです。

和解金は1787万円。

トヨタ2000GTといえば、アメリカのオークションで1億円を超える高値が付いたことが話題になったように、この和解金も普通の乗用車とは桁が違います。

私は昔のクルマが好きで、自宅の車庫にこの2000GTを置いて毎日眺めることができたら幸せだろうな、と考えることもあるのですが、このようなニュースを聞くとちょっと引いてしまいます。

バイオリンのストラディバリウスを所有しているあるバイオリニストがインタビューで、自分のものという意識はなく、次の世代に継承するために預かっているという趣旨のことをおっしゃっていました。

私もお金があれば、名車とかバイオリンの名器といわれるものを所有してみたいとは思いますが、クルマであれば雨の日であろうが乗りたいときは乗りたいですし、バイオリンであればお酒を飲んで気分がいいときに弾いてみたくなることもあると思います。

次の世代に継承するための預かり物という意識で触ると、酔いが醒めてしまいそうです。

本日「サポート相談室」がAppleのApp Storeでダウンロードできるようになりました

今月2日には「安心対話室」もダウンロードできるようになっていましたので、これで「ここたまサポートひろば」を含む三つのアプリがAndroidとiPhoneに出揃ったことになります。

これら三つのアプリに共通するのはチャットカウンセリング専用に開発されたということ。

今日はASK アクティブシニア交流会さんのビジネス研究会の日で、エルシス九州株式会社さんという会社が自社ソフトウェアを発表されたのですが、それは撮影された人の精神状態を分析するという画期的な商品でした。
http://info.ask-fk.com/2018/02/31494.html

今回はメンタル方面に興味のある参加者が多いだろうなと思って、急いで三つのアプリを説明するチラシを作って全員にお配りしたのですが、今朝「サポート相談室」がApp Storeにアップされるのが分かったので、急遽App Storeのロゴをチラシに追加しました。

ASKの西村会長に気を使っていただいて、ビジネス研究会の最後に簡単にアプリの説明をさせていただきました。

習慣化できることはもともと潜在意識が望んでいたからのような気がします

実はこのようなやり方で習慣化したものがあります。

バイオリンと英語です。

ただこちらも「ほんの小さなことをやる」や「1分間だけやってみる」とあまり変わりません。

ですので、何年経ってもバイオリンも「弾ける」というレベルではなく、英語も「できる」というレベルではありません。

しかしこの程度の習慣でもメリットはあります。

毎日触れることで日常の一部になる、触れることが怖くなくなる、というようなこと。

昔からバイオリンの音色に憧れていたのですが、高いお金を出してどんなに練習しても「ギィーコギィーコ」という音しか出なかったらどうしようと思って、おそるおそる渋谷のイケベ楽器店で9800円のバイオリンセットを買ったことがあります。

中学校の英語は授業の記憶さえありませんし、高校の分厚いマスタリーの教科書は見ているだけでもどんよりした気分になっていました。

今ではそのようなこともないのですから。

とここまで書いてきて、昨日の坐禅を含む三つの習慣化は、潜在意識は望んでいたけれど顕在意識か何かが拒否していたことだったような気もしてきました。

坐禅もどきの習慣化に成功したようです

かなり前ですが、このブログで坐禅の真似事をやっていることを書きました。

そのときやっていたのも、禅宗のお坊さんがやっている結跏趺坐(けっかふざ)という正式な座り方はではなく、何十分も集中することでもありません。椅子に座って行う「椅子坐禅」をほんの3分や5分程度。

まさに真似事ですよね。

しかしそれでも忘れてしまう日があり、毎日できてはいませんでした。

宝彩有菜さんの「始めよう。瞑想」(光文社知恵の森文庫)という本に書いてあるとおりに、1日15分間続けていた時期もあるのですが、そのときは本当に頭がすっきりするのを実感できました。

坐禅がいいというのは自分でも分かっているのです。

3分程度の坐禅も続けられないのかと情けなく思っていました。

そんなことを日頃から意識して本屋さんにいたり、インターネットを見ていたりすると、習慣化するには「ほんの小さなことをやる」とか「1分間だけやってみる」という趣旨の本やコラム、ブログなどが目に付くようになりました。

1分でいいのなら、と思って息を吐くだけをやってみたのですが、それだと数十秒。

こりゃあんまりだと思って、腹式呼吸で息を吸い、もう一度吐くところまでを組み合わせてみました。

外山さんのコラムを読んで、考えていないのは本に限ったことじゃないと分かりました

今までこのブログで、私は昔から一つのことに集中できず、興味の赴くままにあっちフラフラこっちフラフラしてしまう悪い癖があることを何度も書いてきました。

昨日インターネットで外山滋比古さんの「読書が役立つのは30代まで」というコラムを読んで、最近ライプニッツの生きた時代背景とか神秘思想への関わりのような本を面白がっていたことに、「ああ、また悪い癖が出た」と反省しました。

肝心のライプニッツの哲学の本を読み返すこともせず、自分の考えを深めることもしていませんでした。

外山さんのご指摘通り、人が書いている知識ばかり取り入れて安心している。自分がない。

興味のあるものの周辺ばかりに手を出して、その中心(本体)をおろそかにしてしまうんですね。楽をしているんだと思います。

これも以前書いたことですが、ある会社にIT関連業務全般のお手伝いで出向していたとき、「あなたの専門は何ですか?」と聞かれて答えられなかったという話をしました。

パソコンを触るのは好きなので、とりあえず広く浅く知識は吸収する。便利屋さんでしかないわけです。

これがプログラマーやシステムエンジニアとしてその会社に出向しているのであれば、即返答できたと思いますし、それ以前にその方はそんな質問をする必要もなかったと思います。

外山滋比古さんの「読書が役立つのは30代まで」というご指摘に耳が痛いです

ここ数日、ダ・ヴィンチ、ニュートン、ライプニッツのような自然科学の礎を築いた人たちと宗教との関係が書かれた本を読んで、記事にしていました。

このような関係に興味を持ったのは、ライプニッツを読むようになったのがきっかけですが、特に三田誠広さんの本には多くの思想や団体が登場して、ますます興味が増しました。

しかし当事者たちがこのような思想や団体に関わっていたのは、純粋に科学原理を追求する目的のためであって、オカルティックなものを信奉したということではなさそうです。

本に紹介されているいくつかの思想をたどって行けば、私が興味を持っている東洋の思想に繋がるようなので、面白いと思ったんですね。

以前、ライプニッツのモナド論と華厳経の関連性を指摘した論文のことを書きましたが、その例でいえば新プラトン主義の哲学者プロティノスを介して、華厳経とライプニッツが繋がっている、というようなことです。

何だか興味の赴くままに本を探して買っていたらきりがないな・・・と思ってインターネットを見ていたら、PRESIDENT Onlineに外山滋比古さんの「94歳が断言"読書が役立つのは30代まで"」というコラムがありました。

外山さんといえは「思考の整理学」(ちくま文庫)。私もずいぶん前に読みました。

宗教がなくなった時代の方がより豊かな想像の世界を持っているのかもしれません

森毅さんや三田誠広さんの本をざっと読んでみて、まだ内容は消化できていませんが、17世紀以前も今の時代も人の心は変わらないという印象だけは受けました。

三田さんの「ダ・ヴィンチの謎 ニュートンの奇跡」(祥伝社新書)によれば、民衆を支配していた宗教、カトリックは神父のいうことだけを信じていればよく、神の原理=科学原理を追求するダ・ヴィンチ、ニュートンのような科学者たちを神秘主義者として否定した。

しかし科学者たちは、神を信じるがゆえに神の原理=科学原理を追求したのだ、ということをおっしゃっています。

森さんの本もそうですが、これらを読む前はニュートンのような17世紀以前の数学者、物理学者は、錬金術のような怪しげなオカルトも研究した魔術師のようなイメージも持っていました。

実際はそうではなく、宇宙の原理を真摯に追求していたらしい。

オカルトのイメージなんて後世の人の脚色ですよね。

以前も、安倍晴明の実像と後世のフィクションに彩られた姿との違いを書きましたが、それと同じです。

ニュートンの時代は産業革命の前の世紀、生活の中にまだ宗教が大部分を占めいていたと思います。

それなのに、21世紀の人間である私が17世紀の科学者に何を期待していたんだろう、と。

森さんの本から17世紀のヨーロッパやライプニッツへの接し方が分かりました

昔から森毅さんのエッセイが大好きで、体を壊して療養中に読んでいたときは、森さんの柔軟な世の中の見方に対して、自分はそれまでずいぶん硬直した考え方をしていたなと反省したものです。

そんな森さんの本、「魔術から数学へ」(講談社学術文庫)にざっと目を通してみて、自分なりに17世紀のヨーロッパやライプニッツへの接し方が分かりました。

森さんは本の中で、ライプニッツの哲学は奥深くてカントに乗りこえられてしまうようなものではないと思うが、ここでそれを論ずるほど学識ゆたかではない、とおっしゃっています。

続けて哲学者にリクエストして、「どなたかライプニッツの解説をして、僕にも少しはわかるようにしてほしい」とも。

もちろん、森さんが「わからない」というレベルは私とは次元が違うのは理解していますし、森さんが分からないなら私がライプニッツを分かるわけがないということも納得できました。

これからは、逆に気楽にライプニッツの哲学に接することができそうです。

驚いたのは森さんが一番憧れているのは17世紀中葉、バロックの最盛期とのこと。

「それは、近代の生まれる混沌の時代であったからだ。」と説明していらっしゃいます。

森毅さんの未読本に出合えたりしてライプニッツを知ってよかったと思います

先日、ライプニッツに注目するようになって、17世紀にとても興味を持ち始めていることを書きました。

彼は数学や科学の分野に多くの業績を残したのですが、最善説のようなものを始めとして、世界を説明する際に神の影響を語ります。

ライプニッツとほぼ同時期に微分積分を発見したニュートンにしても、二人より少し前のデカルトやパスカルにしても同じような宗教色を感じます。

その時代背景を説明してくれそうな本はいろいろあるようですが、手軽そうなところで、森毅さんの「魔術から数学へ」(講談社学術文庫)と三田誠広さんの「ダ・ヴィンチの謎 ニュートンの奇跡」(祥伝社新書)を購入しました。

ざっと目を通してみると、どちらの本も数学と宗教の両面から人物と時代を解説してくれていますが、三田さんの方はより具体的な思想や団体名が示されていて、まさにサスペンス小説を読むように引き込まれてしまいます。

森毅さんの方はスコラ哲学、自然魔術、産業技術、封建貴族と王の官僚としての知識層、その知識層と結びつく商工業者など、より広範な範囲から考察されています。

私は昔から森さんの柔軟な発想と遊び心が大好きで、目に留まったエッセイ本はできるだけ買いましたし、手に入らないものは図書館で目を通しました。