癒しのアイテムの流行はまだまだ続きそうです

最初にマインドフルネスの情報に触れたときは、坐禅や瞑想の一種かなと思いました。

調べてみると、坐禅や瞑想から宗教的な要素を取り除いて、心理療法などに使われているということが分かりました。

マインドフルネスの前はヨガが流行っていたように思います。

ヨガも少し調べてみたのですが、こちらは起源を特定することができないほど古いもののようです。

私がイメージするのは、昔からインドで行われてきたもので、仏教に取り入れられたものが坐禅になったという感じです。

何度か書いてきた大乗仏教の深層心理学ともいわれる唯識ですが、こちらもヨガを実践する学派で、正確には瑜伽行唯識学派といいます。

ヨガの体験からも唯識の教理が生み出されたのですね。

しかしヨガもマインドフルネスも、日本で流行るものはオシャレなイメージです。

表参道や麻布のホットヨガスタジオに、仕事帰りのOLさんが通っているような・・・。

ヨガの前に流行っていたものは何だったでしょうか。

マインドフルネスやヨガのように、書籍や雑誌として数多く出版されていたのは引き寄せの法則だったような気がします。

マインドフルネスは効果がありそうです

以前、マインドフルネスについて簡単な記事を書きました。

そのときはほとんど知識がなかったのですが、インターネットに坐禅との違いについての記事があったので、それを参考にしました。

最近ますます、マインドフルネスについての書籍や情報が増えているようです。

そこで、ちゃんとマインドフルネスについての本を読んでおこうと、香山リカさんの「マインドフルネス最前線」(サンガ新書)という本を買いました。

心理学の方やお坊さんが解説されている本がいいと思っていたので、これはうってつけです。

読み始めていきなり驚いたのは、マインドフルネスはテーラワーダ仏教のヴィパッサナー瞑想というものが元になっているというところです。

テーラワーダ仏教といえば、数年前から精力的に仏教関連の本を執筆されている、アルボムッレ・スマナサーラ長老という方の宗派です。

よく見かけていた方がマインドフルネスに関係があったと知って、ちょっとびっくりしました。

そして次に驚いたのは、対談相手の方々が、マインドフルネスは効果があると仰っていることです。

香山さんは精神科医ですし、熊野宏昭さんという心療内科医の方とも対談されていますので、現場の病院での実情を知ることができます。

私の関わり方は科学者の方には申し訳ない、いい加減な態度だと思います

昨日は、民俗学などの学者さんは仕事上、興味の赴くままにフラフラと寄り道することはできないだろうな、というお話をしました。

私が興味を持っているのは人の心に関することなのですが、漠然としすぎてカテゴリーに分けることもできないと思います。

心理学、民俗学、歴史、・・・小説も好きですし、どれも恐ろしく広く浅い関わり方です。

そう考えてみると、科学はその対極にあるような気がします。

以前、V・S・ラマチャンドラン他著の「脳のなかの幽霊」(角川文庫)のお話をしたと思うのですが、面白い実験結果よりも、客観性を保つための実験の準備の方に驚きます。

有名な、福岡伸一さんの「生物と無生物のあいだ」(講談社現代新書)や、本川達雄さんの「ゾウの時間 ネズミの時間」(中公新書)のような本でも同じことを感じます。

このような科学者の方々の実験のおかげで、病気になったときも安定した治療が受けられるのですね。

先日、小松和彦さんの「悪霊論」(ちくま学芸文庫)を読んでいたら、ちょっとびっくりすることが書いてありました。

平安時代、病気の治療のために密教僧が加持祈祷を行っていたのですが、その際、「憑坐(よりまし)」と呼ばれた霊媒も同席します。

興味のつまみ食いを楽しむには条件があるようです

小松和彦さんのような民俗学などの学者さんは、仕事として関わっている研究テーマや論文の執筆などがあるでしょうから、アマチュアの私のように、興味の赴くままにフラフラと寄り道することはできないと思います。

先日から少しずつ読んでいる、赤坂憲雄さんの「境界の発生」には、村の境界にあるサイの神、道祖神の話が出てきます。

元々はアニミズムが原点だったのでしょうが、男女の像が彫られたものは中国の陰陽思想の影響でしょうし、私の実家の近くにあった恐ろしい形相の立像が彫られたものは、道教の庚申信仰だと思います。

村の境界にあるお地蔵さんも道祖神信仰と結びついたものといわれているようですね。

民間信仰ですから、ありとあらゆる信心が習合されて行く可能性があると思います。

道祖神の話ひとつとっても、これだけ多様な庶民の信仰や生活を研究できそうですので、興味さえ続けば、いくらでも楽しめそうです。

しかし、このように寄り道を楽しむためには、条件があるのではないかと思っています。

「さあ、才能(じぶん)に目覚めよう」(日本経済新聞出版社)という、自分の五つの強みを見つける有名な本があるのですが、私にはその五つの中に「収集心」という資質がありました。

心の話つながりで各分野に首を突っ込んでいることが面白いです

小松和彦さんのことを何度か書いてきましたが、私が最初に読んだ本は「日本の呪い」という題名だった記憶があります。

調べてみると、1988年に新書で発売されて、現在は「呪いと日本人」(角川ソフィア文庫)と改題されているらしいです。

20代後半だったと思うので、やっぱり当時からこの世界が好きだったんですね。

私の勤めていた会社に趣味の合う先輩がいて、この本を買ってすぐに「面白そうでしょう?」と見せたら、「こりゃすごい」と私が読む前に取り上げられたことがありました。

小松さんは当時から気鋭の民俗学者でした。

昨日まで能について書いていましたが、そのきっかけとなった安田登さんは、27歳から能の世界に入られたそうで、今ではワキ役の中堅として活躍されています。

野球のイチロー選手や、将棋の羽生名人の名前を出すまでもなく、一流の方は、早くからその道一筋に精進されています。

一方で私は、その時その時に興味のあるものを、あっちフラフラこっちフラフラとつまみ食いしているだけなので、エキスパートになれる分野もありません。

異界という言葉のイメージにワクワクしているだけのようです

小松和彦さんの本などの影響で、元々異界についての話が好きだったのですが、それはあくまで本の中の世界を楽しんでいたという感じです。

安田登さんの「異界を旅する能 ワキという存在」を読んでみると、能を鑑賞することで、実際に異界を体験できるようなのです。ワクワクしてしまいました。

しかし改めて異界というものを考えてみると、単純なイメージとしては、お化けがいるところとか、この世に対するあの世のことなのでしょうし、民俗学的には外国人であったり、芸能の民や山で生活する人のように、外の世界から訪れる人のことになるのでしょうか。

実生活で使われる「異界」という言葉は、民俗学や文化人類学の用語というよりも、小説などで流行語として多用されているため、語義が定まっていないということのようです。

能に限っていえば、この世に生きるワキが、あの世の住人シテを呼び出す話ですから、少なくとも、室町時代の人々が持っていたあの世のイメージを、現在の私たちが感じることができる場ではあると思います。

能の舞台というのは、観客のいるこの世と異界との間にある「境界」にあたるともいえます。

そんなことに考えを巡らせているうちに、赤坂憲雄著「境界の発生」(講談社学術文庫)という本を見つけてしまいました。

室町時代の人々の精神に触れることができるのはすごいことだと思います

能は室町時代に成立した芸能です。

人々の精神活動がその時代独特の文化を生み出します。

先日も書きましたが、一遍上人が広めた踊念仏の影響もあり、この時代の庶民が信仰したのは浄土宗なのだと思います。

能は庶民の娯楽である猿楽から発展したということですので、この踊念仏に少なからずイメージを重ねてしまいます。

一方で、観阿弥を後援した足利義満の室町幕府は禅宗を保護しています。

先日書いたように、能は禅との関係性も指摘されています。

さらにいえば、世阿弥は「風姿花伝」の中の一文「一切は、陰陽の和するところの境を・・・」にあるように、陰陽道の影響も受けているようです。

鎌倉幕府が成立して武士の時代になってから、朝廷に所属していた陰陽師は、民間陰陽師として庶民の間に浸透して行ったようですので、それは考えられることだと思います。

なかなかに複雑で面白いですね。

昨日ご紹介したワキ役の安田登さんは、「身体感覚で「論語」を読みなおす。」という本を書いていらっしゃいますし、「寺子屋」と題するワークショップも主催されています。

能は異界を旅する物語のようです

先日、室町文化の中では能が面白いという記事を書きました。

以前、室町文化について調べているとき、能について書いてある本を読んでみようと思い立って、安田登著「異界を旅する能 ワキという存在」(ちくま文庫)という本を見つけました。

能には夢幻能と現在能という種類があるようで、この本は主に夢幻能について書かれています。

登場人物はシテ役とワキ役がいて、旅人であるワキが、幽霊や精霊であるシテと出会うことから始まる異界の物語、というような説明がされています。

もう即買いです。とても面白くて、すぐに読み終わってしまいました。

アーサー王もそうですが、私は異界に迷い込む話が好きなんですね。

幽霊や精霊であるシテは普通の人には見えないのですが、それを見る特殊能力を持つのがワキという人のようです。

ワキの役割は、舞台の最初で、旅の途中のワキがシテと出会うことで、観客にシテの存在を分からせることにあるそうです。

その役割が終わると、ワキは舞台の隅で座っているだけの存在になるとのこと。

私はNHKで能が放送されているとき、数分程度それを見ることがあったのですが、お面を付けた登場人物が一人で舞っている場面ばかりだったのは、そういう理由だったのですね。

自分が歴史好きだと気付いていない方もいらっしゃるのではないでしょうか

マニエリスムのことを書いてから、かなり長い記事になりました。

先日、何十年かぶりに小学校の卒業文集を見たことをお話しましたが、私はそこに島原の乱について書いていました。

クラスメイトは、家族や野球などの日常のことや読書感想文を書いていましたので、自分でなぜこんなテーマにしたのか不思議でした。

島原の乱は修学旅行に行く際に学んだ知識だと思うのですが、キリシタン弾圧のために実施された踏み絵について、子供ながらに酷いことをするなという印象を持っていました。

今考えてみると、人々の感情が大きな事件を引き起こし、それが歴史になるということに、先日から書いている、文化芸術が生まれるパワーと同じ驚きを感じていたのかもしれません。

よほど印象が強かったのか、中学か高校か忘れましたが、遠藤周作さんの「沈黙」も読みました。この時期に夢中で読んだ数少ない小説です。

当時の私は意識していませんでしたが、この乱が幕府の鎖国政策を推し進め、国内の安定をもたらし、元禄文化が花開いたわけですから、歴史と文化芸術の関係の深さを感じます。

中学生の頃は、自分では歴史に興味がありそうな気がしていたのですが、年号や人物の名前が覚えられないので、やはり興味はなかったのだと納得して、この歳まで過ごしてきました。

いつの間にか歴史に興味を持つようになっていました

学生の頃は歴史の成績が悪かったので、自分は歴史嫌いだと思っていたのですが、ここ数年、中世の歴史を中心に興味があり何冊か本を読んでいます。

というのも、綱野善彦さんの「日本の歴史をよみなおす」(ちくま学芸文庫)を読んだとき、戦後くらいまでの私たちの常識として考えられた世界は、だいたい室町時代ぐらいまでさかのぼれるが、13世紀以前は異質な世界である、というような記述にとても興味を持ったからです。

日頃から私たちは、喜んだり、腹を立てたり、悲しんだり、いろいろな感情を持って生活していますが、このような感情は、思想や宗教が違う国で育っていればまた変わってくるんだろうな、と想像はできます。

しかし同じ日本で、ある時代より前の人たちが、私たちの持つ感情とはまた違う種類の感情を持っていたかもしれないと思うと、とても不思議な感じがします。

私が幼稚園の頃、田舎じゃなくても、夜になると至る所に暗闇が残っていました。

当時私は、日本中にできていた新興のアパート団地に住んでいました。

コンビニなんてありませんから、夜になるとあちこちに暗闇があります。

風か何かで「ヒュー」っと音がしようものなら、怖くなって親に「何の音?」なんて聞くわけです。

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